仏教のことば:「二乗(にじょう)」

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二乗(にじょう)

声聞と独覚とよぶ二種類のタイプの仏教修行者。


仏教用語。声聞乗 (しょうもんじょう) と縁覚乗 (えんがくじょう) のこと。前者は,釈尊の教えを直接聞いてこれをそのまま実践することであり,後者は単独で悟りを開く実践をいう。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

「乗」という字は仏教において大きな意味を持ちます。サンスクリット名ではヤーナ。意味は道です。
それが何故「乗」という字が当てられたのか。仏の教えを、煩悩や苦悩にまみれた世界から悟りへと導く救いの乗り物、船だと認識した為です。

声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。

声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。

これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。
独覚ともいいます。

二乗の部分的な覚りとは「無常」を覚ることです。
無常とは万物が時間とともに変化・生滅することをいいます。
自分と世界を客観視し、世間すなわち現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが、二乗の境涯です。

仏教では、この宇宙に十の世界(十界(じっかい))があると説かれます。

地獄(じこく)(怒(いか)りの世界)・餓鬼(がき)(貪(むさぼ)りの世界)・畜生(ちくしょう)(無知の世界)・修羅(しゅら)(争いの世界)・人間(にんげん)(平穏な世界)・天上(てんじょう)(喜びの世界)、この六つは迷いの世界で、六道(ろくどう)とか六凡(ろくぽん)といわれます。
悟(さと)りを得ていない普通の人(凡夫(ぼんぷ))はこの六つの世界をさまよいます(六道輪廻(ろくどうりんね))。

これに対して声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)(独覚(どっかく))・菩薩(ぼさつ)・仏(ぶつ)という四つの悟りの世界(四聖(ししょう))があります。
声聞とは、教えを聴聞する者という意味で、声聞界は仏の教え聞いて、おもに四諦(したい)を修習し、自分自身の悟りを目指す人の世界です。
縁覚界は、おもに十二因縁(じゅうにいんねん)を観じる行(ぎょう)などによって、師を持たずに悟りを得ようとする人の世界です。
菩薩界も、声聞・縁覚の二乗(にじょう)と同じく修行者の世界ですが、二乗の人たちが自分の解脱(げだつ)のみを目標にするのに対し、自分とともに他の人たちをも救い、悟りを得させることが目標であるという点が大きく違うところです。

初期仏教における修行者は声聞(しょうもん)、もしくは縁覚(えんがく)と呼ばれていました。

この声聞と縁覚は単に修行僧としての位ではなく、修行法の一つです。
この二つもまた二乗と呼ばれます。

声聞とは、師匠について説法を聞き、それで修行をする僧侶です。
縁覚は師匠を持たない独学派。
ついでに言うと、縁覚は悟ったことを他者に漏らすこともありません。
完全なる独立型と言えます。
どちらにせよ、最終目的は阿羅漢という高僧になることです。
仏になることまでは考えません。

何故なら、お釈迦様以外の仏はいないからです。
「仏陀にはなれないから、阿羅漢になろう」といった初期仏教は、後に部派仏教、もしくは小乗仏教と呼ばれます。
声聞、縁覚共に教理があり、それぞれ声聞乗、縁覚乗といい、二乗とされます。

初期仏教では「在家ではなく出家をしないと駄目。
出家もできない奴が何で救われるなんて思うんだ」との考えがあったのです。

これに異を唱えた人々が出始めました。
「皆が救われるべき。自分たち出家僧だけが救われればそれでいいの。そんなのお釈迦様の教えに反してるよ」と、誰でも仏になれる、救われると言った教えを説くようになったのです。
「本当の悟りは他者を救うことで成される」との考えから生まれたのが菩薩です。
観音菩薩、弥勒菩薩などのあの菩薩は、元々修行者という意味で、かつての修行僧も菩薩と呼ばれました。

事実、伝承で語られる有名どころの菩薩は修行の傍ら衆生を救うために奔走していますし、あらゆる仏が生まれたのも大乗仏教です。

小乗仏教も大乗仏教も、信徒にとっては大事な信仰の対象であり、ある種の心の拠り所なのです。
この二つの教えもまた、二乗とされます。

そもそも部派仏教の教えは「お釈迦様はあまりに偉大で、誰もあの境地にたどり着けない。
それでも阿羅漢になれば救われる」というものです。