打坐(たざ)
坐禅することです。
只管(しかん)打坐といえば、余念なく専心に坐ることをいいます。
「只管打坐」は曹洞宗の道元が説いた、ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方です。
只管打坐は「心身脱落」の境地を目指します。
曹洞宗の坐禅の特徴は、「只管打坐」(「唯務打坐」、「祗管参禅」)だと言われます。
「只管打坐」の読み方は「しかんたざ」です。
「只管打坐」の意味は、「ひたすら坐禅すること」です。
「只管」とは、ひたすら、ただもっぱらそのことだけをする、という意味であり、「打坐」とは、座ること、坐禅をすることという意味です。
また、「只管打坐」の重要なポイントは、悟りを求めるなど、なんらの目的も持たず、ただひたすらに坐禅することにあります。
道元禅師も、「作仏(さぶつ)を図ること莫れ」(普勧坐禅儀)、「自調之行を作すこと莫れ」(永平広録)と書いています。
つまり、仏を目指すといった目的を持たず、作為をせずに、ただ無心に座るのが「只管打座」です。
また、「無所得無所悟」(正法眼蔵随聞記)とも表現します。
坐禅を行ったからといって、何も得るところがない、ということですが、自分を変えるという目的意識を持たない行為であるということを表現しているのでしょう。
晩年の道元禅師は、大きく思想的に転向し、「只管打座」も否定したのではないか、という説があります。
「只管打座」だけではなく、坐禅も、「禅宗」も否定したと。
晩年に道元禅師は、従来より知られている「七十五巻本」の「正法眼蔵」とは別に、新しく「十二巻本」の「正法眼蔵」を著しました。
従来から、道元禅師は、「曹洞宗」や「禅宗」という名称をはっきりと否定しています。
「禅師」という言葉もです。
しかし、「十二巻本」では、それだけではなく、「禅宗」の思想や「只管打座」を説かず、否定しているのではないか、ということです。
道元禅師は、「七十五巻本」のすべてを書き直しながら百巻にしようとして、十二巻を書き直したところで、亡くなった、と言われています。
しかし、「七十五巻本」は書き直される予定のものではなく、完成したものとして死の前年に編集されたとか、「十二巻本」は十二巻で完結しているという説もあります。
道元禅師の永平寺での説法を記録した「永平広録」では、「十二巻本」の時期に、依然として「只管打座」を説き続けていてます。
ですから、決して、「只管打座」を否定するような転向があったとは言えません。
因果を否定するような邪見をもっては、仏祖の坐禅の修行はできないと説いています。
坐禅中に衆生を忘れず、慈念を持って、功徳を一切に廻向するように説きます。
如浄のもとで禅修行を行っているとき、道元は如浄の発した「身心脱落」という言葉によって悟りを得たとされます。
「身心脱落」とは、身体と心の束縛から離れるということであり、すなわち「私が、私が」という自我意識から離れ、無我になった状態ということです。
「只管打坐」によって「心身脱落」の境地に至ることが、道元の禅の教えです。
道元の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、「仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。
自己を学ぶとは、自己を忘れることです」と書かれています。
道元が伝えた「只管打坐」は、釈迦が行っていた正法の坐禅です。
釈迦が行っていたのは精神を集中して「瞑想」にふける修行ですが、坐禅と同じ意味です。
釈迦の「瞑想」とは、両脚を組んで座り、ただひたすら精神を集中します。
何かを唱えたり、考えたりすることはありません。
道元が目指したのが釈迦の行っていた瞑想修行です。
迦が行っていた正法の坐禅修行である「只管打坐」は、何かを得ることを目的として行うのではないところがポイントです。