仏教のことば:「禅(ぜん)」

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禅(ぜん)

瞑想の意味です。
定・静慮・思惟修と漢訳。
禅定とも。

禅という言葉は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」の漢訳である。サンスクリット語とはインドに古くから存在する由緒正しい言語で、パーリ語はその俗語。

サンスクリット語の俗語はいくつもあるが、なかでもパーリ語はもっともサンスクリット語に近い俗語といわれています。

禅の意味が精神の統一、瞑想にあるのは上記のとおりだが、それは仏教を構築する3つの柱のうちの1本でもある。
仏教には「三学(さんがく)」とよばれる大きな柱が3つあるのだが、その1つが「定」、つまりは瞑想なのだ。
ほかの2本は「戒(かい)」と「慧(え)」で、これに「定」を合わせた「戒・定・慧」を三学と呼んでいます。

「戒」というのは生活指針のようなもので、早い話が規範・ルールのこと。
僧侶や仏教徒は戒にのっとって生活することがふさわしいと考えられていたので、重要な3つの柱の1つは戒になっています。

戒のことを戒律ともいうが、厳密にいうと戒と律は別物である。
戒は私的な規範で、律は公的な規範。
戒を破っても大した罪にはなりませんが、律を破ると罪が重いとされています。

「慧」というのは真実について考える頭のはたらきのことである。智慧ともいう。
一般的に「ちえ」という言葉には「知恵」という漢字が用いられるが、仏教では知恵と智慧を完全に区別して用いています。

智慧とは別名「悟り」ともよばれ、悟りを開くこと、すなわち智慧の眼を開くことが仏教における最大の目的とされてきました。

禅においても例外ではありませんが、禅の特徴は何かと考えれば、三学でいうところの「定」を重視する教えと考えることができきます。

「定」とは前述の、ジャーナの意訳の「定」と同じで、精神の統一の意です。

「禅」の起源は古代中国にさかのぼります。禅の始祖は「菩提達磨(ぼだいだるま)」というインド人の仏教僧です。サンスクリット語のボーディダルマを音写したのが菩提達磨という名前で、「ダルマ」は「法」を表す言葉です。

菩提達磨は5世紀から6世紀の人で、中国に渡り釈迦の弟子として「禅那(ディヤーナ)」を体系化して広めました。達磨によって伝えられた禅はやがて臨済宗や曹洞宗などの禅宗五家に分かれ、日本にも伝わり、大きな影響を及ぼしました。日本の禅についてはのちほど詳しく説明します。

また日本で縁起物として親しまれている「福だるま」は達磨が座禅を続けて手足が無くなってしまったという伝説に由来しています。

さらに、禅は座禅を組んで行う瞑想(禅定)とも近い仏教の修行方法であり、紀元前500年頃の釈迦の時代にはすでに禅定を行っていました。釈迦が菩提樹の下で禅定を行っている時に悟りを開いたことは仏教でよく知られた逸話です。また釈迦の言行をまとめた『ダンマパダ』という原始仏教経典には座禅瞑想(禅定)を行う釈迦や弟子の様子が著されています。

達磨は釈迦の教えを伝える弟子であり、その二十八代目の弟子となります。

禅の特徴をズバリとらえた言葉に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という禅語があります。
真実とは文字や言葉で会得できるものではなく。必ず実体験としてそれを体得せよ体解せよという意味の言葉です。

「不立文字」は達磨大師が説いた「四聖句」のうちのひとつでもあり、これらはつながりあって悟りへ達すると説かれます。

「四聖句」

「不立文字」(ふりゅうもんじ):釈迦の教えは修行により体得することが重要だとする思想。
「教外別伝」(きょうげべつでん):釈迦の教えは心から心へと伝達されるとする考え方。
「直指人心」(じきしにんしん):「人の心を指し示す」という意味で、坐禅をして、自分の心を見つめる修行のこと。
「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ):「直指人心」でおのれの心をしっかり見つめ、自分の内にある仏性を見つめる修行のこと。

「禅」の目的は「悟り」を開くことです。
悟りとは、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れることです。道元はその境地を「心身脱落」と表現しました。