第23章は「象-聡明な伴侶」について説いています。
思慮深く、行い正しく、
聡明な伴侶を得ることが出来たならば、
あらゆる危険や困難を乗り越えて、
心喜び、正しく念じつつ、
ともに歩むがよい
仏陀の時代、修行は一人でするものか、共同でするものかという議論が盛んになされていました。
仏陀自身も結局一人で修行して悟りを得ていますし、スッタニパータという経典の中で、出家者は犀の角のように一人離れて修行せよと説いています。
一人で修行する利点は、独立自由に修行できるところにあり、共同で行う場合は、どうしても相手に気遣ってしまうからです。
また、仏陀は一人でないならば、相手とおしゃべりしてしまって修行に専念できないからだとも言っているのではないでしょうか。
しかしこの詩のように、要するに、賢い連れが必要だとも言っているのではないでしょうか。
思慮深く、行い正しく、聡明な伴侶は良いことだといっています。
しかし一つの条件を出しています。
それは、心喜び、正しく念じつつ、と言うところです。
自己をしっかりと守りながら、正しい念を保ちながら行じなくてはならない。
それが出来るならば伴侶とともに修行することはよいことだというわけです。
これは仏教の発展にとって極めて重要な考え方であったのです。
当時いろいろの沙門集団が活躍していたのですが、多くは独自修行を行う集団でした。
それらの中で仏教とジャイナ教だけが集団で修行する方式を取り入れており、現代まで残っているのは正にこの二つだけなのです。
仏陀の斬新な考え方、集団で修行するという考え方は素晴らしい考え方だったのです。
この集団での修行というのは、実は自然発生的であったともいえます。
富豪な信者の寄付してくれた精舎や僧院で弟子たちがみんなで暮らし始めたことを、仏陀は否定しなかったと言うことなのです。
当時の沙門集団としての修行方法から見れば、それは違法であり、革新的なことでもあったのです。
いろいろの反対意見もあったのですが、仏陀はこの精舎方式を認め、教団という組織の基礎を築いたからこそ、仏教が今日あるといっても過言ではないかもしれません。
集団での修行は、教理を維持できるからなのです。
その上で、後悔しない行いをしなくてはならないと言ってるのです。
320
戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。
多くの人は実に性質(タチ)が悪いからである。
321
馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。
世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
322
馴らされた騾馬は良い。
インダス河のほとりの血統よき馬も良い。
クンジャラという名の大きな象も良い。
しかし自己(オノレ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
323
何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。
そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
324
「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。
捕らえられると、一口の食物も食べない。
象は象の林を慕っている。
325
大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
326
この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。
今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、──象使いが鉤(カギ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
327
つとめはげむのを楽しめ。
おのれの心を護れ。
自己を難処から救い出せ。
──泥沼に落ち込んだ象のように。
328
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
329
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330
愚かな者を道伴れとするな。
独りで行くほうがよい。
孤独(ヒトリ)で歩め。
悪いことをするな。
求めるところは少なくあれ。
──林の中にいる象のように。
331
事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。
(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。
善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。
(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332
世に母を敬うことは楽しい。
また父を敬うことは楽しい。
世に修行者を敬うことは楽しい。
世にバラモンを敬うことは楽しい。
333
老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。
信仰が確立していることは楽しい。
明らかな知慧を体得することは楽しい。
もろもろの悪事をなさないことは楽しい。