第22章は「地獄-善悪の基準」について説いています。
悪をなすよりは何もしないほうがよい。
悪を行えば後で悔いる。
単に何かを行うよりは善を行うのがよい。
行い終わって、悔いることがない。
善悪の違いはどのように決められるのでしょうか。
この行いは善で、この行いは悪であると基準はどうなっているのでしょうか。
その絶対的な基準はないといってよいでしょう。
人を殺すことは善いことか悪いことかについて、現代でも過去の歴史上でも人を殺すことは悪行だと言われているように思いますが、そうも言い切れません。
戦国時代、敵の大将の首を取れば、これは大変な手柄であり、大いに誉められることでした。
また現代でも、アメリカは空爆によってテロリストを殺そうとしていますし、テロリストはアメリカを攻撃対象としています。
それぞれ殺すことに成功すればよくやったと誉められます。
人殺しは悪いことだとは決められないのです。
ヒンズー教においてはビーフを食べることは許されないことですし、イスラム教においてはポークを食べることはよくないことです。
でも日本人にとってはどちらも悪いことではありません。
このように、民族、時代、場所、宗教、文化、国際関係などいろいろの条件によって善悪の基準は変わってくるのです。
仏陀はその時の諸条件の中において、善悪について一つの基準をここに示しました。
いろいろの例を挙げて示すのではなく、全体としての定義を出しています。
すなわち、後で後悔しない行為は善であり、後で後悔する行為は悪であると言うのです。
一つの考え方です。
ただ、これだけでは不十分と言わねばなりませんが、仏陀はそこまで気を使っています。
ある人は盗みをしても後悔しないかも知れません。
これでは人によって異なってきてしまいます。
そのために、まず心を清めよ、と言っていると思います。
その上で、後悔しない行いをしなくてはならないと言ってるのです。
306
いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、──この両者は死後にはひとしくなる、──来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
307
袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。
かれらは、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。
308
戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。
309
放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。
──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。
310
禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。
それ故にひとは他人のなれ近づくな。
311
茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。
312
その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313
もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。
それを断乎として実行せよ。
行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
314
悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。
悪いことをすれば、後で悔いる。
単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。
なしおわって、後で悔いがない。
315
辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。
瞬時も空しく過ごすな。
時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。
316
恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
317
恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
318
避けねばならないことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
319
遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいた、善いところ(=天上)におもむく。