第16章は「愛するもの」について説いています。
「愛するもの」としていますが、「愛する人」と訳してある文献もあります。
人に限らず、全てのものに愛をむさぼってはならないと教えていると思います。
自分のものにしたいという欲望、執着してはいけないと説いていると思います。
愛するものと会うな、と言うのは、会えば更に愛がつのるし、愛しないものと会うなというのは、憎悪の心を起こしてはならないからだと考えます。
愛しないもの、というのは、全部の中から愛するものを除いた全てのもの、という意味ではなく、嫌いなものという意味と思います。
全部の中から、愛するものと、愛しないものとを除けば、残りは愛してもいなく憎くもないものということになります。
愛するものに会わないのは確かに辛いことですし、愛しないもの嫌いなものと会わねばならないのも苦痛です。
愛するものを失うのは、ただ会わないということよりも更に辛いことです。
愛する恋人にしても、大切に思うお金にしても失うことは辛いことです。
嫌いな人、憎たらしい人と一緒にいなければならないことも辛いことです。
愛するものも、嫌いなものもないならば、そのような辛い思いをしなくて良いわけです。
わずらいがないわけです。
どうすれば愛するものも、嫌いなものもない状態でいることができるようになるかと言えば、仏陀の正しい教えを習得することによって成し遂げられます。
そのようになった人を賢者なのだと思います。
209
道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210
愛する人と会うな。
愛する人に会わないのは苦しい。
また愛しない人に会うのも苦しい。
211
それ故に愛する人をつくるな。
愛する人を失うのはわざわいである。
愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。
212
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
213
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
愛情を離れたならば憂いが存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
□ちょっとわかりやすく
愛するものがあるから、それを守ろうとして憂いや恐れが生じる。
愛するもの、執着するものを捨てよ。
214
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。
快楽を離れたならば憂いが存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
215
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。
欲情を離れたならば、憂いは存しない。
どうして恐れることがあろうか。
216
妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。
妄執を離れたならば、憂いは存しない。
どうして恐れることがあろうか。
□ちょっとわかりやすく
愛するものも、執着も妄執のもとです。
妄執を捨てよ。
217
徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。
□ちょっとわかりやすく
正しい心と行い、正しい見解をもって、真実を語れ。
自分のなすべきことをなせ。
218
ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
219
久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
220
そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。
──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるよえに。