第12章は「自己について」というテーマです。
仏典に自己について見る物語があります。
「満月のこうこうと照りわたるある秋の夜、二人の他にだれもいない楼台の上で、国王は王妃に向かって言いました。
「マリッカーよ、この世で一番愛しい人はだれかね」と。
当然て答えは決まっているものとの思い込みで尋ねました。
ところが意外に、
「はい、王様、私にとって一番愛しいのは自分自身でございます。」
と答えが返ってきました。
王様は少しがっかりされた様子でしたが、王妃は続けて言います。
「ところで王様、あなたはいかがですか」と。
王様はしばらく考えと見えましたが、「わたしにとっても、わたし自身が一番愛しい。」と答えられたのです。
愛しい自己であるからこそ、自己を正しく守らなければなりません。
正しく守ると言うことは、真理に目覚めるということです。
外敵から身を守るという意味ではありません。
このことを仏陀は夜の三つの区分として説いています。
古代インドでは、夜に三つの区分があると考えられていました。
それと同様に人生にも三つの時期があると考えられています。
第一の時期は遊びに夢中になっている時代で、少年期です。
第二の時期は、仕事をし、妻子を養っている時期で、壮年期です。
第三の時期は、老年期であって、少なくとも善をなすべき時期だといいます。
この三つの時期のうち少なくても一つの時期は、はっきりと目を覚まして修行しなさいと説いているのだと思います。
第一の時期に怠けていたならば、第二の時期に修行すべきであり、その第二の時期にも修行できなかったのならば、第三の時期に目を覚まして修行せよと言うことです。
人生のうちどこかでは修行して、真理に目覚めよということだと思います。
157
もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。
賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158
先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。
そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。
159
他人に教えるとおりに、自分で行なえ──。
自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。
自己は実に制し難い。
160
自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161
自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。
──金剛石が宝石を打ちくだくように。
162
極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。
──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。
163
善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。
ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
164
愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。
──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
165
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。
166
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。
自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。