第8章は教えのための手段について説いています。
仏陀は実にいろいろのことを説き、哲学的なことも、宗教的なことも説いています。
しかしそれらは、例えば空にしても縁起にしても教えのための手段なのではないでしょうか。
己に勝つことは、百人の敵に勝つより優れたことだと言っているのではないでしょうか。
仏陀の最終目的は実にここ、すなわち己に勝つことを学んでほしいと言うところにあったように思います。
人として生活している以上、様々なことが起きてきます。
自分はこうしたいと言う要求が出てきます。
その自らの要求を自ら制することは非常に難しいものです。
他人に注意することはできても自分に注意することはなかなか難しいと思います。
仏陀の言葉では、「煩悩を制せよ。」ということになると思います。
これが出来た人こそ、最上の人と賞賛されるべきなのです。
煩悩は心の働きですが、煩悩ではない心の働きというものがあるのでしょうか。
煩悩をなくして、その別の心に切り替えよと言っているのでしょうか。
そうではなく、人間の心の働き全部が煩悩なのです。
煩悩を無くするには植物人間になるか、死を選ぶしかなくなってしまいます。
仏陀は決して煩悩を無くせとは説いていません。
「煩悩を制しなさい。」と言われているとだと思います。
好き勝手に心のおもむくままに行動をしてはいけません。
正しいことと正しくないことを見極め、心の要求を制御しなさい。
と説いているのだと思います。
我慢しながら制しているうちは賢者の領域には到ってなく、自然にそのように正しい行いが出来るようになって、そのように為すことが楽しくなって初めて賢者と言われるのだと思います。
100
無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。
101
無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
102
無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
103
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104、105
自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。
つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
□ちょっとわかりやすく
自分に克つことがもっとも難しく、すぐれたことです。
自分に克った者が一番強い。
106
百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
107
百年のあいだ、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
108
功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。
行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。
109
つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。
──すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
110
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111
愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
112
怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。
113
物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
114
不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
115
最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。