第5章のポイントは、自分は自分ではない愚かな人、と言うテーマです。
自分で自分が分らなくなったとか、何で自分はこんなことしてしまったのだろう、などと現代でも言いますが、この仏陀の言葉の自分のものと言うところをよく考えておく必要があります。
ものが実在すると言うような言い方においては、実体という言葉が使われます。
空ではないことを言います。
この実体というのは、その対象とするものであって、それ以外の何物でもなく、未来永劫変わることのないものをいいます。
世の中に、そのようなものはありません。
たとえ太陽でも何時かは変化します。
仏陀は哲学的考え方でもってこのことを説いているようです。
自分の物である、と言う場合、自分のものとはどういうものかを示していますが、それは、自分のものと言うならば少なくとも自分の思い通りになるものでなければならない、としています。
自分ですら自分を思い通りに出来ないのに、ましてや子供を自分の思い通りに出来はしませんよ。
「それは世の習いです。」と説かれています。
財産にしても同じであり、自分の思い通りに出来る財産はありません。
いつ何時災害で失われるかもしれません。
このような当然のことを愚か者は気づいておらず、悩んでしまっていると思います。
賢い人は、そのことに気づき、ああ今まで自分のものだと思っていたことは間違いだったと思えるようになったときから、その瞬間から、悩みから開放されるのだと思います。
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眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
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旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
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「わたしには子がある。
わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
□ちょっとわかりやすく
子どもも、妻も、財産も、自分自身でさえも自分のものではないと思え。
自分ものであるという思いが、苦悩と争いのもとになりました。
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もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
64
愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。
匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。
65
聡明な人は瞬時(マバタキ)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。
──舌が汁の味をただちに知るように。
66
あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(カタキ)に対するようにふるまう。
悪い行いをして、苦い果実(コノミ)を結ぶ。
67
もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
69
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
70
愚かな者は、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く小量の)食物を摂るようなことをして、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない。
71
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。
(徐々に固まって熟する。
)その業は、灰に襲われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
72
愚かな者に念慮(オモイ)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。
その念慮はかれの好運(シアワセ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
73
愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。
修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行って供養を得ようと願うであろう。
74
「これは、わたしのしたことである。
在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。
およそなすべきことなすべからざることとについては、わたしの意に従え」──愚かな者はこのように思う。
こうして欲求と高慢(タカブリ)とがたかまる。
75
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。
ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。
孤独の境地にはげめ。