第3章は「心とは一体何」というテーマでまとめています。
いろいろの言われ方をしていますが、はっきりと定義することはなかなか難しいことです。
自我とは何かに通じます。
その自我をみるには勉強と修練、すなわち修行が必要だとされています。
犬猫に心はあるでしょうか。
自我はあるでしょうか。
仏教の教えでは、心は空であり、心があるとは言えないといっています。
しかし同時に、心はないのではないとも言っているのではないでしょうか。
そのような心を定義づけようとしても、所詮言葉の遊びにしかすぎないのかも知れず、定義そのものが困難なのだと思います。
33
心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
英知ある人はこれを直くする。
──弓矢職人が矢柄を直くするように。
34
水の中の住居(スミカ)から引き出されて陵の上になげすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
35
心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。
その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。
□ちょっとわかりやすく
心の平静を保つことが、平安と幸福のもとになりました。
36
心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。
英知ある人は心を守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。
37
心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。
この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
38
心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されないならば、さとりの智慧は全からず。
39
心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
40
この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城廓のように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。
克ち得たものを守れ。
──しかもそれに執著することなく。
41
ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。
42
憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
43
母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられ心がしてくれる。
□ちょっとわかりやすく
正しい心をもって行うことが、結果として、自分に良い結果をもたらす。