仏教のことば:「安楽(あんらく)」

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安楽(あんらく)

安楽は、心身に苦痛がなく、この上もなく楽な状態をいう日常用語です。

仏教では『無量寿経』に「その仏の世界を名づけて安楽という」とあるように、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土のことをいいます。
安楽国、安楽仏土、安楽浄土、または安養浄土など、さまざまな表現がされていますが、みな阿弥陀仏の世界のことです。

『ダンマパダ』36

心というのは目に見えず、わずかながらに変わり、欲するままに動いています。

智慧を持つ人は心を守ることです。

心を守ることで、安楽がもたらされます。

最近のニュースなどで、看護業界などで安全・安楽という言葉はよく耳にします。

確かに「命」を扱うわけですから、安全・安楽を心がけるのは当然です。

しかし、相手が本当に安全で安楽であるかというのを量るには限界がありますよね。

そこで、自分自身はどうか?を考えることがとても大切です。

というのも、一つは自分に置き換えるということ。

「自分だったらどうか」ということですね。

これは人の気持ちを量るのによく言われる方法ですよね。

自分自身が安全・安楽でなければ相手も安全・安楽ではないということにもなります。

このことを考えるととても介助を考えるときに役に立つというか、わかり安いのではないかと思っています。

尊厳死と安楽死は、どう違う

確かに、いずれも本人の意思による死の迎え方ですが、その目的や過程に違いがあります。

安楽死

回復の見込みがなく、苦痛の激しい末期の傷病者に対して、本人の意思に基づき、薬物を投与するなどして人為的に死を迎えさせること。
日本では法的には認められていない。横浜地方裁判所の東海大学安楽死事件(1991年)に対する判決(1995年)においては、

(1)患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること

(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること

(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、代替手段がないこと

(4)患者自身による、安楽死を望む意思表示があること
の4要件を満たせば、安楽死が認められる(違法ではない)とされたが、これまで認められた例はない。
積極的安楽死とも呼ばれる。

尊厳死

回復の見込みがない傷病者に対して、本人のリヴィング・ウィル(生前の意思)に基づき、人工呼吸器や点滴などの生命維持装置を外し、人工的な延命措置を中止して、寿命が尽きたときに自然な死を迎えさせること。
植物状態におちいるなどしたとき、人工的な延命措置によって生命を維持し続けることは、人間としての尊厳を保っていないと本人が考えた場合、人工的な延命措置を行わずに自然な死を選ぶ権利があるとする考え方にもとづく。QOL(生命の質)を重視する流れから、この権利が求められるようになった。
消極的安楽死とも呼ばれる。

安楽死が「患者の苦痛からの解放」を第一の目的として、薬物などによって人為的に死をもたらすものである(ゆえに、「積極的安楽死」と呼ばれる)のに対し、尊厳死は「人間の尊厳を保って自然に死にたい」という患者の希望をかなえることを目的として、人工的な延命措置を行うのをやめ、その結果として自然な死を迎える(ゆえに、「消極的安楽死」とも呼ばれる)というものです。

それぞれ「何が目的か」「どのように死を迎えるか」が異なりますよね。

いかに死を迎えるかは大切なことですね。

なかなか考えることはできませんが、いずれ訪れますからね。