仏陀真理のことば: 第二四章愛執

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第24章は「愛執」について説いています。

考えが定まらず、心が乱れ、

愛欲が激しくつのるのに、

愛欲は清らかだと言う人は、

愛への執着をますます深める。

そしてこの人は、

束縛の絆を実に堅固にしてしまう。

キリスト教では、「隣人を愛せよ」などと、愛を大切にしていると思います。

しかし仏教では、愛に執着してはならないと言います。

仏教では、慈悲と言う言葉がありますが、これは愛欲とは違います。


愛と言う言葉を辞書で調べても、なかなか適切な表現はなされていないように思います。
もっとも、それは自分の経験を的確に言い表していないという意味であって、定義がまちがっているという意味ではありません。

あの人が好きだ、愛してしまったなどという意味では辞書の表現「異性に対する性愛の欲望」と似ているところもあります。

愛欲のもう一つの意味は、深く妻子などを愛する情を意味します。
この場合は自分のものにしたいという欲望はあまりありません。

考えが定まらず、心が乱れると言うことは、自分の生き方を定めておらず、善悪の判断基準も持っておらず、さらに法についても知っていないことを表しています。

いろいろの場面で常に心が揺れ動く様を言っているのではないでしょうか。

そのような無知の人が、心のおもむくままに、正しい制御を行わないならば、異性を自分のものにしたいという性愛を益々募らせ、妻や子を溺愛するようになっていきます。

愛は心として清いものだと考え、正しいことだと勘違いしてしまうことです。
慈悲心は清く正しいことなのですが、この愛欲は苦の源になるであろう事を認識していないが故に、正しいことと思ってしまうのです。

仏陀はいいます。
そのように思う人はますます愛欲の執着を深め、束縛状態になってしまいますよと。

愛に執着すること自身は心清いものであるとは思うのですが、仏陀の言うとおり、それが故に苦しまねばならなくなるのです。

334
恣(ホシイママ)のふるまいをする人には愛執が蔓草(ツルクサ)のようにはびこる。
林の中で猿が果実(コノミ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

335
この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。
──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336
この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。
──水の滴が蓮華から落ちるように。

337
さあ、みんなに告げます。
──ここに集まったみなさんに幸あれ。
欲望の根を掘れ。
──(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。
葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

338
たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

339
快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。
──ひの波浪とは貪欲にねざした想いである。

340
(愛欲の)流れは至るところに流れる。
(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。
その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。

341
人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。
実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

□ちょっとわかりやすく
人は快楽にふけり、愛着と執着に陥る。
そして生と老衰を受ける。

342
愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。
束縛の絆にしばられ愛著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

343
愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。
それ故に修行僧は、自己の離欲を除き去れ。

344
愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。
その人を見よ!束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

345
346
鉄や木材や麻紐でつくられた枷(カセ)を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。
宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。
それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。

かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

347
愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、──蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。
思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。

348
前を捨てよ。
後を捨てよ。
中間を棄てよ。
生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

349
あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

350
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(キヨカラヌモノ)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。

351
さとりの究極に達し、恐れること無く、無我で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。
これが最後の身体である。

352
愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

□ちょっとわかりやすく
愛着と慾望を離れ、執着を捨て、正しい言葉の意味を理解するならば、その人は、身体をたもつだけのものであり、叡知を持った人となりました。

353
われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。
すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。
みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。

354
教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。
妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。

355
彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。
愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

356
田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。
それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

357
田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。
これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

358
田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。
それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

359
田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。
それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

 

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