仏教のことば:「鬼門(きもん)」

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鬼門(きもん)

うしとら・北東の隅は常に、悪魔の出入りする門戸であるとし、あるいは又その方角に鬼星の石室があるとして、その方角を忌むことです。
転じて苦手な人・場所・事柄についていいます。

鬼門というと方角的には東北方、つまり艮(丑寅)の方角をいいます。私は昔から鬼が出入りするところなので不浄にしていてはいけないと言われてきました。

中国における鬼(キ)は、道教で言うところの「魂魄(コンパク)」の「魄(ハク)」の部分のことです。
人は「魂魄」によって生を維持し、「魂」は精神を支配し、「魄」は肉体を支配していると考えられています。
人は死ぬと、「魂」が3つに分かれ、1つは天に帰し、1つは地に帰り、1つは墓に帰ると考えられました。
その死の際に、風水で選ばれた龍穴の地に正しく埋葬されないと、「魂」は正しくそれぞれに帰ることができず、「魄」が遺体に残されたままとなり、殭屍(キョンシー)になってさまようと考えられました。

このさまよう「魄」が、山海経で虎の餌にされた鬼の正体です。
道教では「魄」は、肉体を支配する感情のことを言い、喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望の7つをまとめて七魄と呼んだ。
中国人の考えた鬼とは、人の「魂」=良心が抜けて、「魄」=制御不能な感情だけがさまよっている状態のことです。
ちなみに行くべきところへ行った「魂」は神になると考えられました。

日本の鬼は、もともと「おぬ」と呼ばれた概念です。
「隠」と言う字を当てる。
隠されて見えない物、人目に触れず裏側にあるものという意味で、そこから派生して、人知を超えた力を有するもの、神へと進化していった。

日本の神という概念は、和魂と荒魂という二面性を持っています。
和魂とは雨や日光の恵み、加護のことであり、荒魂とは天変地異や疫病といった祟りのことです。
原始の神とは、大自然の摂理そのもののことで、この摂理が持つ二面性が、のちの怨霊信仰へと繋がってゆく。

菅原道真も早良親王も平将門も盛大に祟る。
祟りが大きければ大きいほど、その二面性がもたらす恩恵、いわゆる加護も大きくなるという理屈です。
だから、人は天神様(祭神菅原道真)に参り、神田明神(祭神平将門)の祭りを盛大に祝うのです。

この怨霊が神へと変化する過程でこぼれ落ちたものが鬼です。
神は怨霊から変化する過程で、祟りと加護という霊験を得たが、鬼はその変貌の過程で、道教の「巡り金神信仰」や仏教の浄土信仰と混ざり合い、牛のツノを持ち、虎の皮のパンツを身につけ、鉄の棍棒を振り回し、地獄の亡者を懲らしめるという属性が備わっていった。

ちなみに昔話において、鬼を退治する多くの者は童子(小さい者)です。
東洋思想において、子供は神に守られていて、霊験を発揮し悪霊を祓うと信じられていたからです。
そのことからも鬼とは、悪霊・怨霊のことと認識され、日本では恐れられたのです。

鬼門という字は本当は「生門」で、「貴門」ですね。

この意味は、昔「大通智諸仏」という仏様がおいでになりました。この仏様に16人の子供がおられて皆出家して菩薩様となりました。この菩薩様が十法国土に散って衆生(私たちのことです)に、法華経を説くことになったのです。その時、東北方を釈迦牟尼仏ともう一人の菩薩様に任されました。(つまり大通智諸仏はお釈迦様のお父様という事なのです。)

つまり、鬼門と言われている東北方は「釈迦牟尼仏」が居られる場所なのです。ですから、とても貴い方角で生きていくために必要な教えを説いている方角なので、
生門であり貴門といわれるのです。
だから不浄なものは避けなさいと言われてきたのです。