雪山(せっせん)
インド北部のヒマラヤ山脈のことです。
大雪山ともいいます。
雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)
昔、インドの雪深い山に鳥の夫婦が住んでいました。
昼は太陽の光が当たるので雪山でも暖かくなり、鳥たちは陽気に浮かれて、のんきに歌を歌って遊んでいます。
でも夜になると雪山は厳しい寒さになり、鳥たちは、昼間、遊びほうけたことをとても後悔します。
雌は「寒くて死んでしまう」と泣き叫びます。
雄は「夜が明けたら、巣を作ろう」と固く決心し、雌をなだめます。
でも夜が明けて暖かくなると、その苦しさをすっかり忘れて、昼間一日、夫婦でいつもと同じように浮かれて遊びまわり、また夜になると、「明日は巣を作ろう」と決心します。
寒苦鳥は、夜は寒さに苦しみ、昼は遊びほうけることを繰り返して、「明日は巣を作ろう」と鳴きながら、最後まで巣を作ることなく一生を終えるそうです。
この鳥たちは、雪の山に住み、寒さに苦しむということで「雪山の寒苦鳥」と呼ばれています。
寒苦鳥(かんくちょう)は、インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。
夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。
仏教では、怠けて悟りの道を求めない人間にたとえられています。
寒苦鳥はどうあがこうと苦しみの中で死んでいくのです。
それが寒苦鳥の習性です。
ところが阿弥陀さまはその寒苦鳥をどうするのかといえば、その寒苦鳥の生きざまを責めることなく「そんな生き方しかできないあなたのためのお慈悲です」と阿弥陀如来の存在を告げるのです。
寒苦鳥は己が苦しみを通して阿弥陀如来の大悲の深さに触れながら死んでいくのです。
雪山童子(せっせんどうじ)の捨身羅刹(しゃしんらせつ)ジャータカ物語
ある時雪山童子と呼ばれる修行者が、森の中を歩いていると「諸行無常(しょぎょうむじょう)・是生滅法(ぜしょうめっぽう)」(色は匂えど散りぬるを 我が世、誰ぞ常ならん)という、言葉が聞こえてきました。
「これはすばらしい真理の言葉だ。」と、その続きの言葉が聞こえてくるのを待っていました。
しかし、なかなか聞こえてきませんので、声のする方へと歩いていきますとそこには羅刹(らせつ)と呼ばれる人食い鬼が居りました。
雪山童子はおそるおそる羅刹にたずねました。
「今の言葉はあなたが言ったのですか?」「そうだ。」「ではその続きがあるはずですから聞かせてもらえないでしょうか?」と、雪山童子は羅刹に頼みました。
しかし、羅刹は「わしの好物は人間の生の肉だ。
お前がわしの餌食になってくれるのなら、先程の言葉の続きを聞かせてやろう。
」 その言葉を聞いて、雪山童子は「先にその言葉を教えてください。
そしてそれを木に刻んでおきます。
そうすれば私が死んだ後も誰かがこれを見て真理を悟り、伝えてくれるでしょう。
」その言葉に応えて、羅刹は続きの言葉を教えてくれました。
「生滅滅已(しょうめつめっち) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」(有為の奥山、今日越えて 浅き夢見し、酔いもせず)雪山童子は、すぐに木に刻んで、「本当に尊い真理の言葉を聞かせていただいてありがとうございました。」と礼を言うと、崖の上から羅刹の口めがけて飛び降りました。
そのとき羅刹は帝釈天に姿を変えて雪山童子を恭しく抱きかかえて、いのちをかけた修行をほめたたえたという事です。
この物語にちなんで、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」を、雪山偈と呼び慣わしているそうです。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」と、ご和讃されるように真理のためならば身命をも捨てるという、私たちの聞法の心構えを教えて下さっていると思います。