新発意(しんぼち)
発意は発心で、悟りを求め仏門に入ることです。
新発意は新弟子をいいます。
菩提心を起して仏道の修行に入ること。
浄土真宗では、得度した若い男子を新発意と呼ぶ。
新発意の菩薩は五十二位中十信の位にあるもので、仏道修学の日が浅いことから新学の菩薩ともいう。
『維摩経』中には、「其の神通を得たる菩薩は、即ち自ら形を変じて四万二千由旬と為し、獅子座に坐す。
諸の新発意の菩薩及び大弟子は皆昇ること能わず」(正蔵一四・五四六中)とあり、『大智度論』六一には「般若波羅蜜随喜の義は新学の菩薩の前に説くべからず。
何を以ての故に。
若し少福徳善根の者ありて、是れ畢竟空の法を聞かば、即ち空を著して是の念を作さん」(正蔵二五・四八九下)ともあり、『安楽集』上に「新発意の菩薩は機解軟弱なり。
発心すと雖も、多く浄土に生ぜんと願ず」(浄全一・六八三上/正蔵四七・九上)として、それぞれ新発意の菩薩の立場を示している。
元来は、発心して新たに仏門に入った者のことで、新たに悟りを求める意を発すことの意から転じた。
「しんぼち」とも読み、初発心ともいう。
さらに俗に転化して、新前僧侶の意味で揶揄的に用いられることがあった。
晋山式の新住職は新命という。
仏法に関しては、私達は、いつまでたっても分からないのではないでしょうか。
仏様が分からない、お浄土が分からないから、私達は、今、迷いの存在としてここにいるのです。
分かっていたら、こんなところで迷ってなんかいません。
仏法など聞く気すら起こらず、傲慢な思いの中で我欲に振り回されながら人生を過ごしていくのが、私達の姿です。
そのどうしようもない私達を、少しずつ少しずつ仏法に向かうように育ててくださるのが阿弥陀如来の願いの働きなのです。
仏法を聞く気すら起こらない方も、すでに仏法を聞くご縁に遇っておられる方も、同じ阿弥陀如来のお育ての中にある尊い仏の子です。
仏法というのは、分かろうとして分かるものではありません。
法然聖人や親鸞聖人のお勧めどおりに、素直にお念仏を申し、如来様に手を合わせる中で、少しずつ育てられていくものなのでしょう。
様々な仏縁を慶べる身にさせていただきたいものです。
千宗旦が落ちた椿の花を生きかえらせた話
宗旦と親しい安居院(あんごいん)正安寺の住職が、庭の妙蓮寺椿が美しく咲いたので、新発意(しんぼち)(小僧)に「十分に注意して、花を落とさないように持って行きなさい」と宗旦のもとに一枝届けさせた。
ところがその途中、どうしたはずみか、たった一輪の花が、コロリと落ちてしまった。
茫然自失の新発意。
寺へ帰ることもできず、意を決して宗旦のもとを訪れ、一部始終を話した。
黙って聞いていた宗旦は「よくぞ正直に申された。
しばらく待っていなさい」といい、椿の枝と落ちた一輪を持って今日庵に入った。
宗胆は壁床に掛かった掛物をはずし、利休作の竹花入「園城寺(おんじょうじ)」を掛けて枝を入れ、落ちた花をその下に置き、新発意を招き入れて薄茶を振る舞ったという。
『 平成十一年 淡交増刊号 : 床と床飾りの基礎知識|床かざりの逸話 』より