仏教のことば:「愛」

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「愛」あい

愛(あい)

前回までで、仏陀の教え、仏陀の生涯、仏陀の物語、仏陀の最後の旅、仏陀の意思を継ぐもの、と記載してきましたが今回から新たに「仏教のことば」として新たなシリーズを始めようかと思います。

まずは、「愛(あい)」から始めましょう。

仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」と『涅槃経』にあるように、愛は迷いや貧(むさぼ)りの根源となる悪の心の働きをいいます。
のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貧り執着する根本的な煩悩を指します。

愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味をもっています。

一方、仏教では、このような煩悩にけがされた染汚(ぜんま)愛ばかりでなく、「和顔愛語」のように、けがれていない愛も説かれています。
仏菩薩が衆生を哀憐する法愛がそれなのですが、たいてい「慈悲」と呼ばれているようです。

「愛とは何ですか」と問うならば、日本人の多くはどのように答えるでしょうか。

「恋愛」「人を好きになること」「慕うこと」「かわいがること」なども答えもあるでしょうが、それだけでなく、

「人を思いやること」
という答えも返ってくるでしょう。

あるいは、
「人に親切にすること」
という答えも返ってくるでしょう。

「愛とは人を思いやることだ」とは、今日多くの日本人が持つに至った理解です。ところが、昔の日本には、「愛」という言葉にそのような意味はありませんでした。
じつは仏教には、慈しみを意味する「慈悲」と、愛欲・愛着を意味する「愛」という言葉があります。

仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味なのです。
仏教の「愛」は、欲望の一種であり、煩悩の一つにすぎません。そのため、仏教では「愛」を否定しています。『法句経』にこう書かれています。
「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ恐れあらんや」
この「愛」は、執着心の意味です。仏教では、「愛を離れること」が理想なのです。
ですからかつての日本人は、この仏教の「愛」概念にしたがって、「愛」に否定的な意味しか見ていませんでした。それが明治時代の頃から、しだいに「愛」という言葉の意味が、少しずつ変わってきました。
今日では、愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」などの捉え方を、多くの日本人がしています。

「愛」に、積極的な新しい意味を見ているのです。