唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)
大乗における究極の悟りの境地は、ただ、仏と仏が理解しうるもので、凡夫の思議することのできないものである、と言う意味です。
「唯、仏と仏と、乃し能く(諸法の実相を)究尽したまえり」と読みます。
ただ仏と仏とのみが互いに知ることができ、凡夫は知ることができない境地のこと。
ただ仏と仏とのみの世界をいったもので、仏教の最高の境は、仏と仏とのみが知り得る世界であるというのを、「唯仏与仏の境界」といいます。
「唯だ仏と仏とのみ乃ち能く我が罪の多少を知りたまえり」とあり、衆生が犯した罪の多い少ないは、菩薩から声聞・縁覚にいたるまで知りえず、ただ仏と仏とのみが知ることができるといことですね。
この境地を仏身仏土論中のいずれに配するかは諸師によって異なりがあり、隋代の浄影寺慧遠、智顗、吉蔵らは唯仏与仏の境地を法身および法身浄土に配したが、玄奘によって『仏地経論』が訳出されて以後は、仏の自内証の境地である自受用の身土に該当するとの説も支持されるようになりました。
ある人にであったとき、その折りの、その際の、その人の顔かたちをみて、これこれであったと覚え込み、そしてそのうえで、あの人はいつもこういう顔かたちだと決めてしまうことがある。
また花や月も、状況によってさまざまに違うのに、その時みた花や月を、やがて花、月一般に及ぼして花はこういうもの、月はしかじかのと、自分の心でみた光色を加えて月の光、花の色を断定してしまう。
また、春はただ春ながらの心、秋の美しいのもまた美しからざるのもまた秋ながらのおのづからのあらわれで、それはそれぞれにいたしかたのないものである。
道元禅師の『正法眼蔵 唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)』のなかに「本当の自分を見得ている者はほとんどいない。
ただ仏だけがそれを知っている。
それ以外の者たちは空しく、本当の自分ではないものを自分と思っている」とある通り、人間は本当の自己がわかっていないと本当のような偽りの自己、いかにも本物のようにみえる、にせものの自己にすがるようになります。
それに執着するようになります。
そうしないとどうにもこうにも自分の身が持たないように感じてしまうからなのですが、あいにく偽物では結局のところは役には立ちません。
せいぜい一時しのぎが関の山です。
それどころか偽物の自己にすがろうとすればするほど、結果的に自分や他人を傷つけ苦しめることになります。
唯仏与仏乃能究尽
(ゆいぶつよぶつないのうくじん)」
仏の覚知した「諸法実相」の理(ことわり)は甚だ深く、決して言語表現を超えている
から、言葉をたよりに物事を理解しようとする凡人には悟ることはできない。
結局は、仏法とは諸法実相を覚知した仏のみがよく、その仏の到達した諸法実相を究め
尽くしているのであり、凡夫や二乗の知るところではない、ということです。
だから、「『仏』と『仏のみ』とは2人、仏がいる」という意味ではなくて、ただ仏の
みがよく、仏の知っている諸法の実相を究め尽くしているのである、という意味です。
難しいですね。