人間が完成する六つの道筋、「六波羅蜜」
六波羅蜜
人間が完成する六つの道筋となる「六波羅蜜」は原始仏教が大乗仏教になっていくところで出てきた考え方です。
「波羅蜜」とはサンスクリットで「彼岸に至る」という意味で、日本語に置き換えれば「到達・完成」です。
「お彼岸」といいますが、「彼の岸」というのは理想の岸のことをいっていて、現在の此岸ともいうべき現在の生活に対する理想の環境が「波羅蜜」です。
一番目は「布施」
大乗仏教の見方では、人間が完成していくためには六つの道筋があって、その一番目は「布施」、つまり「与える」というところからはじまるわけです。
原始仏教では八正道の「見る」が最初でしたが、大乗仏教になってくると「与える」ことが一番大事になってきます。
とことんまで人に何かを与えていくことです。
与えるには何か資財が必要ですが、「無財施(資財がなくてもできる布施)」というものがあります。
たとえば「ほほえみ・愛読」など、手ぶらでも人をしあわせにする布施を高く評価します。
二番目は「持戒」。
「戒」とは「いましめ・決まり」ですから、「決まりを持つ」ということです。
決められたことは守っていくということ。
ただし、戒には、いましめだけでなく「つつしむ」という意味もあります。
三番目は「忍辱」。
忍耐ですが、ただ耐えるというだけではありません。
「忍」の字に言偏をつけると「認」という字になります。
「認める」というニュアンスがあることを心に止めておきましょう。
たとえば、書留や宅配便が来たときに認印を押します。
この「認める」とは「確認する」という意味です。
受取人があらかじめ決まっていて逃げ隠れはできありません。
配達されたものを誰かに代わって受け取ってもらうことはできないんです。
現に初期の経典は、「忍」を「認」の略字として用いていました。
ゆえに、忍辱とはただ辛抱するだけではありません。
「運命」という考え方は仏教にはありませんが、災難など好ましくない事柄は宛名指名でやってくる。
つまり「私が受ける災難は私への指名」であって、誰にも代わってもらえない、と確認するのが「認」、すなわち「忍」と同じ意味になります。
確認できれば、歯を食いしばってではなく、納得して耐えることができるでしょう。
四番目の「精進」
四番目の「精進」は、八正道にもありましたが「励む」ということ。
一般にいう「精を出す」の語源です。
五番目の「禅定」
五番目の「禅定」は、八正道の最後の「正定」と同じで精神統一をします。
身心を安定することです。
六番目は「智慧」です。
大乗仏教では原始仏教よりもなお進んで、精神統一の先に「智慧波羅蜜」、智慧の完成というテーマが出てきます。
五つの波羅蜜はこの智慧の完成のための手段になるわけです。
智慧の完成が最終目的になるということです。
ただ注意しなくてはいけないのは、智慧と知識とは達うということです。