空(くう)
この世の存在は、すべて因縁により成るもので、その本質とか実体はないのだという意味です。人間の自己のなかにも、存在するすべてのなかにも実体としての自我はなく因縁によって成っているということです。
「空」は、仏教思想において最も重要な教えの一つです。
空は無と有、否定と肯定の両方の意味をもつが、世間では「から、あき、むなしい」等の意味で把握され、「無」の面だけが強調される傾向にあります。
「空」は梵語「シューニャ」の訳語で、よく「無」とも漢訳されています。
しかし、その語根「シュヴィ」は「膨れる、成長する」の意味ももっています。
たとえばサッカーボールは、外面的に膨らんでいても、内面的には空(から)の状態です。
お酒の入った徳利を想像してみてください。
お酒を飲みほすと、徳利は空(から)になります。
その場合の「空っぽ」というのは、普通は徳利の中のお酒がなくなった状態を指していますが、徳利はそこに存在します。
仏教の「空」では、お酒も徳利も存在しない、徳利を見ている自分さえ存在しない状態のことをいいます。
「無」や「ゼロ」とも違う、何ものも存在しない概念なのです。
数字のゼロも、その原語は「シューニャ」です。
ゼロは、+(プラス)、-(マイナス)両方になる可能性をもつ。
我々人間という個的存在も、肉体、精神の諸要素から成る点では「膨らんだもの」であるが、一方、芯となる自己の本質、我(が)を見出せない点からすれば「うつろな、非実体的存在」です。
その「空」を象徴的に円で表現することがありますが、単に、非存在、空白だけを意味しているわけではありません。
ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁起的には有として肯定される、という両面をもった存在です。
自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世相を思うに、絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ大事なことではないでしょうか。
無の世界は、『空』の思想を確立した思想家もその後継者たちも、そこに何があるのかを明確に言い残しておらず、今でも謎の場所なのです。
その謎であることよりも重要なのは、その何もない地点に行くためにすべてを否定していく作業と、その地点に到達してから聖化され、新しく世界をとらえ直して甦ってくる、その円環的な自己のプロセスそのものが『空』だということでしょうね。