喜捨(きしゃ)
寄進。
すすんで財施することです。
喜捨とは、お檀家さんではない一般の人々が、進んで金品や財物を(寄付)、施捨する行為です。仏教用語。惜しむことなく、喜んで財物を施捨することです。
お布施とは、仏教徒にとっての宗教行為です。
そしてお寺の運営は、檀信徒の皆さんからのお布施と寄付で成り立っています。
お布施のことを「喜捨」とも言いますので、財でいえば喜んで捨てられる金額が「お布施」です。
お布施をめぐっては、一部の住職さんが高額なお布施を檀家に割り当てたり、檀家さんからはお布施の金額が不透明で分からないといった疑問が起こり、メディアの話題になっています。
お釈迦さまの時代、仏教僧団は、物質的な生活基盤を俗世間に完全に依存することによって存続していました。出家者(僧侶)は、金銭を持つことが禁じられ在家人が金銭を管理していました。
僧侶は午前中に行う「乞食行(こつじきぎょう)」により、不特定の施主のご好意により食物を得ていました。
食物をくれる人がいなければ何も食べることができません。 施主は、布施をして功徳を積み、仏さまに手を合わせ、この世の迷いの世界から苦しみの無い悟りの世界に生まれ変わることを目指しました。
現在の寺院では「乞食行」を行わず、自ら金銭を管理し、生活基盤を俗世間に完全に依存することはなくなりましたが、寺院に住まいする寺族の生活は、お檀家の「お布施」によって支えられています。
布施とは、梵語で「檀那(旦那)(ダーナ)」といい、お寺の「檀家」は布施が語源です。 布施は大きく「財施」「法施」「無畏施(むいせ)」の三つに分けられます。
財施は、お金や物を施すこと。「法施」は正しい教えを説き示すこと。「無畏施」は畏れを取り除くこと。つまり安らぎを与えることです。
檀家がお寺の維持のために財を施すことが「財施」、住職が檀家のために仏の教えを説くことを「法施」「無畏施」と言います。
自分がこだわり、とらわれていることから離れ、それを捨てることが布施です。
自分の執着のもとを手放す具体的な行いを通して、いかに自分の執着が強いものであり、それから解き放たれることがいかに難しいかを身をもって実践することが布施なのです。
漫画「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」の名で全国各地の児童福祉施設にランドセルなどの贈り物が届き話題になっている。ある世代にとって懐かしい漫画の主人公が引き合いに出されたことへのノスタルジーもあるのだろうか。テレビのワイドショーなどでも盛んに取り上げられ、これに刺激されたのか、匿名の寄付が相次いでいるといいます。
「無縁社会」といわれ、孤独死や超高齢者の所在不明が象徴するように人と人のつながりの希薄化が急速に進む今、珍しく明るく夢のある話題で、マスメディアが積極的に取り上げるのも当然のことかもしれませんね。
広範な関心を引くような形ではなかなか紹介されない福祉施設の現状に多少なりとも光が当てられたり、社会福祉のあり方、市民としてのかかわり方を多くの人に考えさせる機会を与えてくれるのも大いに歓迎すべきことだと思います。
ただ、こうしたささやかな善意が、同じような形で全国に広がり、特殊な話題になってゆくのを見る時、これらの事象が当事者の思いとは別に、今の社会の現状を浮き彫りにしているのでは、とも感じさせられます。
特に考えざるを得ないのは公共へのかかわり方の一つとしての「寄付」の問題だ。今回の一連の出来事をきっかけに、日本には寄付文化が根付いていないといった指摘も行なわれ、寄付控除の制度なども取り上げられている。確かに寄付の慣習が社会に定着していれば、「伊達直人」もこれほど話題にはならなかったでしょうね。