仏教のことば:「和光同塵(わこうどうじん)」

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和光同塵(わこうどうじん)

仏・菩薩がみずからその光を和らげ、悩める人々に同ずることです。
仏・菩薩が悟りの智慧の光を隠して、衆生を救うために世俗界に身を投じ煩悩の塵に同じて、教化することです。


「光を和げて塵に同ずる」と訓読み出来ますが、「和光同塵」と音読みする方が禅的です。
この句は中国道教の祖、老子の『道徳経』第四章に「其の光を和げて其の塵に同ずる……」とあるのに始まります。

「和光」とは自分の持っている高い道徳的品性と秀れた才智の輝きを和げる、即ち、表に出さない事を云います。
「同」は同化の意で人を感化して自分と同じくさせる意。
「塵」はちりやごみの事で汚れた現実の娑婆世界を指します。
即ち聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入って衆生済度する事を云うのです。

古代中国の思想家である老子(ろうし)の教えを収めた書物があります。それは、『老子(ろうし)』または『老子道徳経(ろうしどうとくきょう)』と呼ばれるものです。

この書物の「四章」に、「和其光、同其塵」という一節があります。これは、「その光を和らげ、その塵を同じくす」と読み下すことができます。

つまり、「自分の光り輝く才能や知性を隠し、世の塵にまみれる」という意味です。このように、老子は「才能は、人にひけらかすものではない」という教えを説いていたのです。この文章が、「和光同塵」の由来です。

真実、禅の悟りに至った道人は学んだ法も、修した道も少しも表に出さず、悟りだの、迷いだの、仏だの、神だの、その影さえ見せず、馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのかさっぱり見当がつかない境涯で長屋の八つぁん、熊さんの手合いと同居して、人知れず衆生を教化済度してゆきます。
その消息を「和光同塵」と云うわけです。

「和光」は、光を和らげることです。つまり、「才能や徳を目立たないようにして隠すこと」を意味しています。

「同塵」の塵は、「ちり」と訓読みすることができます。ここでは俗世間のことを指しています。つまり、同塵とは、「俗世間に合わせる」という意味です。

仏教でも「和光同塵」という言葉を使用します。

この場合、仏や菩薩が、仏教の教えを受け入れられない人間を救うために、本来の姿を隠して人間界に現れることを言います。

これで、とりあえず「一日一生」の「仏教のことば」は最終回です。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。

一応、これで定期的な更新は終わります。

不定期に、新しいテーマが見つかりましたらまた記事にしていきたいと思います。

ありがとうございました。