無為(むい)
生滅変化のない常住不変のことです。
無縁仏(むえんぶつ・むえんぼとけ)
親類縁者など供養する者のない死者の霊。
基本的には、中国の老荘思想からの援用であろうと考えられる。これは「人間の作為ではなく、自然のまま」という意味である。
仏教では、縁起によって作り出されたものではない、不生不滅の存在をいう。
たとえば、涅槃は輪廻を超克したものであるから、「無為」と呼ばれる。為作・造作を有しないもの。すなわち、因縁和合によって生滅する諸法を有為と称するのに対して、為作・造作を離れ、常住にして不生不滅なるものを無為という。
原始仏教においては、最高の理想である涅槃を指して、生滅なき点によって「無為」と名づけた。
部派仏教においては、不変化の点からして有為法と対立するもの、あるいは有為法の根底をなすものとしての無為法が考えられて後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。
仏教諸派により三無為・六無為・九無為などが立てられる。http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%82%80%E3%81%84より引用
仏教の究極の覚(さと)りを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」(無上菩提〈むじょうぼだい〉)というが、この覚りの内容を「大涅槃(だいねはん)」という。
『涅槃経』では、涅槃は解脱(げだつ)でもあり法性(ほっしょう)でもあり、一如(いちにょ)でもあり法身(ほっしん)でもあり、仏性(ぶっしょう)でもあるという。
こういう一連の言葉は、動きゆく意識の内容に捉えられる物事ではない。
こういうことを仏教の学びにおいては、「無為法(むいほう)」という言葉で表している。
無為法は、人間の有為(〈うい〉・時間や条件とともに動いていくこと)の行為や努力や学問では、絶対に包むことができない分位なのである。
人間の限界を超えた領域なのである。
けれども、人間はそういう次元の覚りに触れなければたすからないのだ、というのが仏陀の教えの本質なのである。
サンスカーラという言葉は、一切の存在する物事を表わし、その移ろいゆくすがたが、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とか「生死(しょうじ)」とかと言われるが、そういう認識を翻(ひるがえ)して、「動くことのないこと」(不動心)や時間とかかわりなく、変わらないこと(金剛心)に触れるということが、仏陀が示した方向なのである。
人間の限界を超えた無限の境位を、仏智見(ぶっちけん)に立つなら獲得できるとするのである。
「無為(むい)」
日常では
「無為に時間を過ごしてしまった」
と言うように、為すべきことがあったのに、特に何をするということもなく無駄に過ごしてしまったときに使います。
一方
「有為(うい)」
は
「あの人は有為(ゆうい)な人材だ」
と言うように、才能があり、役に立つ人を評価する言葉として用いられています。
ところが、仏教で使われる時の有為・無為はもっと深い意味を持っていると共に、私たちの語感とは反対です。
「有為」は、因縁によって生じた相対的な「迷い」の世界を指し、「無為」とは因縁によって生じたものではない絶対的な「覚り」の境地を表します。
常に変転してやまない有為無常の存在に対して、変転や迷いのない世界を無為涅槃界とよびます。
私たちは、 それほど迷わなくてよいことを為さなくてはならないと思い込むことで、苦悩すべき相手を取り違えてしまうことがあります。
本当に眼を向けるべき苦悩が見つかることによって、執着への迷いから解放される確かな道が開け、その極致こそが
「寂静無為の楽(正信念仏偈)」
であることを仏教は教えようとしているのだと言えます。