赤ちゃんが宿ると一様に願う親心。それは「五体満足」
乙武洋匡(おとたけひろただ)氏の「五体不満足」という本がずいぶん前にベストセラーになって図書館などにも置いてあるので一度は読んだことがあるのでないでしょうか。
五体満足という語句にかけてのこのタイトルはなかなか強烈でしたね。
お腹に赤ちゃんが宿ると一様に願う親心。
それは「五体満足」。
この場合五体というのは人として身体に欠陥なく生まれてきてきてほしいという意味ですね。
本来の意味は頭部を含めた胴体に2本の腕、2本の足が揃っているという意味らしいですが、指や目、鼻などの部位すべてを含んだものをさすのが普通です。
中国では陰陽五行論というのがあって、すべてのものを「五」に関連してわける理論があります。
「五味」「五穀」「五色」「五臓」など。
この「五体」と言ういい方は五行論ではしないようです。「五体」は日本独自のものかもしれません。
五行論で考えるなら、「五体」とは「頭」「胸」「腹」「手肢」「脚」と分けるのができます。
ところがこの「五体」とは、いったい体のどこの部分を指すのか、誰もがはっきりと答えられないのではないでしょうか。
一般に五体にもさまざまな説があります。
まず、筋、脈、肉、骨、毛皮を表すというもの。
次には頭と両手、両足という説もあり、さらには頭、首、胸、手、足の五つを指すという考えもあって、どれが正しいかは実ははっきりとしていない。
しかし、それらをすべて取り込み、現在では全身を意味することばに変わったことだけは確か。
しかし仏教ではこの五体ははっきりしています。
右膝、左膝、右肘、左肘、頭首です。
この五つの部分を大地にふれさせて行う拝礼は「五体投地」と呼ばれ、仏教では現在も最高の礼法とされています。
五体投地とは、チベット仏教の僧侶達が、巡礼のため聖地に赴く時、文字通り、五体を地面に投げ出し、尺取り虫のように、大地にひれ伏しては、また立上がりながら、進んでいくことをいいます。
五体投地をする人たちは、元々すでに己を捨てています。
生きるも死ぬも、越えた境地で進んで行きます。
その境地そのものが、まさに仏の境地そのものなのです。
その意味で、五体投地をしている僧侶自身が、生き仏なのです。
仏とは、広義の意味で云えばブッタその人では、本来の自分を取り戻して、広くこの社会に、功徳を施したいと願い、そのことを実践している人のことだと思います。
この五体投地をしている僧侶を目にした人たちは、両手を合わせて、その人物に対して、ひたすら崇敬の念を抱いています。
文字どおり全身ほこりまみれ、砂まみれで、一日中続けるというからすごいと思いませんか。
五体が強靫でなければできない拝礼方法といっていいと思います。