入道(にゅうどう)
剃髪し僧衣は着ているが、入寺せずに家に居る者。
悟りを得ること。 仏道に入ること。 出家入道。出家とも。 在家入道。 在家のまま仏道に入った者。 仏道に入った位階三位以上の者。 転じて、仏道に入った者。
本来は悟りの境界に入る意で,転じて出家して仏道に入った人をいう。しかし日本では,一般的に在俗のままで僧形となり,仏道を修行する篤信,強信(ごうしん)の人をいう。また沙弥と同義に使用される。出典 株式会社平凡社
僧形ではあるが、寺に入らず在俗のまま修行をしているもの。高貴なものが多く、特に出家した親王や内親王を入道親王や入道の宮、出家した上皇を法皇と呼ぶ。また出家した後に親王となったものを法親王と呼ぶ。
日本は伝統的に出家・在家の垣根が曖昧ですね。
〔四十二〕髪をそりて仏道に入たると入道といふ。東三条殿入道し玉ひ、其御子御堂殿も入道し玉ひたるゆへ、東三条殿を大入道殿といふ。天下是をいみはゞかりて、入道の人を新発意といえり。満仲朝臣を多田新発意といひたるも、其頃の事なり。『一挙博覧』、『日本随筆大成』第二期8(吉川弘文館・昭和49年)
とりあえず江戸時代には上記のような定義がようです。
明確に「髪をそりて仏道に入たる」とあるから、髪を剃ることに重大な意味があるようです。
確かに、剃髪は仏教の修行者であることを見分ける2つのポイントの1つ(もう1つは袈裟)です。
入道は道に入った人
百人一首では藤原忠通と藤原公経が「入道(にゅうどう)」と記されています。
入道とはどういう人をいうのでしょう。
「道に入る」というのは仏道に入ることを意味し、髪を剃って仏弟子となり、僧の姿に変わった人を指します。
平安時代には皇族や貴族で仏門に入った人を入道と呼び、とくに皇族の場合は入道の宮などと呼んでいました。
太政大臣という、政権トップの座にいた藤原公経(きんつね)は晩年に京都北山に西園寺を造営して移り住み、西園寺殿と呼ばれていました。
入道は必ずしも出家する必要はなく、在俗(ざいぞく)のままで、姿だけ僧形となって生活する人もありました。平清盛などもそうですね。
自分で寺院に住まない事例も存在しました。
武士の時代であれば、武田信玄などがそうですね。
この人の出家については、様々な説があり、最近では出家を擬して代替わりをしたことを示す目的であったという指摘もあるようです。
蛸入道
坊主頭に似ているところから、坊主頭の人をあざけっていう語。たこぼうず。
蛸入道は漁船を襲ったり、漁師を海に引き入れたりするため島根県隠岐地方で恐れられている妖怪だ。しかしところ変わって大阪の泉州ではこれを崇める。それにはこのような話がある。
1330年代半ばの頃であった。泉州岸和田城の城主、和田新兵衛高家が浜辺を散歩していると大蛸がやってきた。大蛸は木彫りの仏像を渡し去っていった。高家は大変不思議に思ったのだがこれも何かの仏縁だろうと思い、城内で祭ることにした。
やがて、岸和田も戦乱に巻き込まれた。高家は仏像を守るため由緒書きとともに堀の中に埋め、それから250年ほどたった。
その当時城主は松浦肥前守となっていたが、岸和田は僧兵集団である根来衆に攻められていた。岸和田城が落とされそうになったその時、突如大法師が現れた。最初は敵かと思ったのだが根来衆を倒しだす。さらに無数の蛸が現れ敵に墨をかけだす。法師と蛸の加勢のおかげで岸和田方は勝利し、いつのまにか大法師と蛸は姿を消していた。
その後、何故か城の堀に蛸が現れるようになった。不思議に思った肥前守は堀を調べさせると矢傷や弾傷だらけの仏像が見つかったのであった。
早速肥前守は仏像を祭らせるため天性寺を建立し、やがて仏像は蛸地蔵と呼ばれるようになった。