大衆(だいしゅう)
仏教では多くの僧侶のことをいいます。
また法を聞くために集まった僧俗の男女の総称。
三帰依文(さんきえもん)には「僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(むげ)ならん」と記されています。
まあ正確には「だいしゅう」と発音するのでしょう。
仏教用語での「大衆」は仏法によって調和のとれた人々の集まりという意味です。
「三帰依(きえ)文(もん)」
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し、いますでに受(う)く。仏法(ぶっぽう)聞(き)き難(がた)し、いますでに聞(き)く。此(こ)の身(み)今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身(み)を度(ど)せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至(し)心(しん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るべし。
自(みずか)ら仏(ぶつ)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上(むじょう)意(い)を発(おこ)さん。
自(みずか)ら法(ほう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、深(ふか)く経蔵(きょうぞう)に入(い)りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくな らん。
自(みずか)ら僧(そう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆(しゅ)生(じょう) とともに、大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切(いっさい)無碍(むげ)ならん。
無上(むじょう)甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法(ほう)は、百千万(ひゃくせんまん)劫(ごう)にも遭遇(あいお)うこと難(かた)し。我(われ)いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実(しんじつ)義(ぎ)を解(げ)したてまつらん。
「三帰依(きえ)文(もん)」現代語訳(ごやく)
この世に人として身を受けることは、私の思いをはるかにこえたことであるにもかかわらず、私は今すでにここにこの身を受けておりました。 出遇(であ)い難(がた)い仏法(ぶっぽう)に、はからずも今、私は出遇うことができました。ここに生きている私が、今、救われなければ、いったいいつになったら救われるというのでありましょうか。だからこそ、今、あらゆる人々と共に私の全てを尽(つ)くして、心から仏(ぶっ)・法(ぽう)・僧(そう)の三宝を尊(とうと)び、それを依(よ)りどころとして生きていきたいと願わずにはいられません。
・私は、仏(ぶつ)(ブッダ)を尊び、それを依(よ)りどころとして生きていきます。
それは、あらゆる人々と共に、真実の法を明らかにされた正しい仏の道をこの身にうなずき、人間を成就(じょうじゅ)する大いなる心がおこることを願うからにほかなりません。
・私は、法(ほう)(ダルマ)に目覚(めざ)めて、それを依りどころとして生きていきます。それは、あらゆる人々と共に、真実の教えを深く求め、あたかも海のように深く限りない智慧(ちえ)をいたたせくことを願うからにほかなりません。
・私は、僧(そう)(サンガ)を敬(うやま)い、それを依りどころとして生きていきます。それは、あらゆる人々と共に、仏法によって生きる平等で自由な集(つど)い(世界)が開かれることを願うからにほかなりません。
この上もなく奥深く尊い真実の法は、どれだけ長い時間をかけても出遇うことは大変むずかしいものです。そうであるのに、私は今、その真実の法に出遇うことができ、その真実の法を依りどころとして生きる身となることができました。ここに、聞法(もんぽう)の生活を通して、本当にの身に生きてはたらく阿弥陀如来の真実を、私のいのちの中に明らかにしていきたいと願っています。
「私は一切衆生(いっさいしゅじょう)の中のひとりだが、同時に、一切衆生を代表するひとりでもある」と言われています。
大衆の中の一人だということになると、「その他おおぜいの中のひとり」という意味になり、なんだか元気が出てきません。
「自分なんかいなくても世の中にはまったく関係ない」という感情がわいてきます。
しかし、大衆を代表するひとりだということになると、ちょっと違います。
ご飯を食べるのも大衆を代表して食べているのかもしれない。
腹を立てるのも、大衆を代表して腹を立てているのかもしれない。
自分は大衆を代表して生きているのかもしれません。
こうなってくると、生きることに前向きになってきます。
このちっぽけな自分に、まったく愚かしい自分に衆生を代表する意味が与えられる。
代表する資格なきものに、代表する意味が与えられる。
この醍醐味(だいごみ)が「大衆」という言葉の響きにはあるように思います。
「すべての存在は、例外なくご縁によって生まれ、ご縁が欠ければ消えてゆく」というのがお釈迦さまの基本的な教えです。