随喜(ずいき)
他人の善行を見て、これに感動し随同することです。
他人が善いことをするのをみて、これに従い、喜ぶこと。『法華経(ほけきょう)』では、この経を聞いて随喜し、教えを伝える功徳(くどく)を力説し、『大智度論(だいちどろん)』では、善を行った本人より、それを随喜した者のほうの功徳がまさっていると説いている。天台宗では滅罪の修行として懺悔(さんげ)する五悔(げ)の一つに数える。転じて、仏教の儀式に参列することをいう。さらに大喜びすることをいい、「随喜の涙を流す」などと用いられる。[石上善應]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
他人が善い行為を修めているのを心から喜び、それを賛嘆すること。
天台宗では法華三昧を修する者が昼夜六時に実践する懺悔の法として五悔があるが、その第三に位置付けられる。また菩薩の一〇種の広大な行願の一つとして随喜功徳が数えられている。
さらに教えを聞いて心に大きな喜びを感じることの意から、喜び勇んで仏道に帰依する、深く心から感謝することをも意味し、「随喜の涙を流す」という用い方もある。
僧侶が法要などに参列すること、特に他寺院の法要に出仕することをいう。
他寺院の施餓鬼会や十夜会などの法要に式衆などとして参加すること。
総・大本山の御忌大会などに出仕し参列することを、知恩院では出勤といい、増上寺では随喜、大本山光明寺の十夜会では警護などという。
随喜(ずいき)とは、他人のなした善い行為に随い順じて、これを心から喜ぶことをいいます。
「随喜の功徳は自作者(随喜される善を行ずる者)に勝る」とも言われています。人間とは、妬みや嫉みが多い生き物ですので、なかなか人の善い行為を心から喜ぶことが難しいということを表しているのでしょう。
転じて、僧侶が法要や儀式に参列したり出仕することを意味するようになりました。
さらに転じて一般的には、心からありがたく思い、大いに喜ぶことを意味するようになりました。
お寺では、慶事だけでなく、弔事に参列することも随喜といいます。弔事であっても仏事法要を営むことは、尊い功徳のある善行だと言えるでしょう。
「随喜」は”心から感動する”と解釈されていることが解りますね。
感動して人に伝える。そして実践する。その功徳が述べられているのです。
随喜功徳とは人が喜んでいるときに同じ気持ちになって心の底から喜んであげること
これが功徳(徳を積むこと、徳積み)になる
時として我々は人の成功や、人の幸福を素直に喜べないことがある
だが、他人の善きことを妬(ねた)む心は醜(みにく)い
人の懐(ふところ)を斟酌(しんしゃく)なく責める姿勢はさもしい
現代人は「分(ぶん)を知り、足るを知る」という奥ゆかしさが少なくなってしまった
人と比較せず自らの道を往き人の喜びを、心から我が喜びとする毎日が徳積みの修行ですね。
心の底からの喜びであり心の底から楽しいと思うことを実践していければと思います。