色(しき)
物質のことです。
仏教用語の「色」といえば、「色即是空」の句で知られる『般若心経』を思い浮かべる人も少なくないと思います。この場合の「色」は、(1)身体に代表される物体を指しますが、これは最も広い意味で用いられた用例です。ちなみに、身体や物体をはなれて空という道理はないというのが先の一句の意味です。
「色」(しき)は物質的存在の総称
変化し壊れるものの意味もある。
・五蘊(ごうん)のひとつ「色・受・行・想・識」の「色」
・眼・耳・鼻・舌・身の「五根」と
色・声・香・味・触の「五境」の意味もあり、
色界の「色」の意味も含まれる。
・十二支縁起(じゅうにしえんぎ)の第3支の「名色」(マーナ・ルーパ)の「色」
・「色貪」(しきとん)の「色」
色界と無色界に結び付ける「五上分結」の「色」
仏教用語。
サンスクリット語やパーリ語のルーパrpaの直訳。
およそ人間の目に映ずるものは形あり色(いろ)あるものであるが、それをインドでは、形よりも色(いろ)の側面で取り上げてルーパというのです。
それゆえに、仏教で色(しき)というときは、単にカラーのみならず、色(いろ)とともに形あるものをさすのです。
スリランカのカラーテレビ放送は「ルーパ・ワーヒニー」Rpavhin、すなわち「色を運ぶもの」(女性形)と称するが、色ばかりでなく形も映っている。
このように目によって表象される色あり形ある存在は、多く物質に属するものであるから、色を「物質」ないし「物質的存在」と訳する向きもあるが、今日われわれが物質という目に見えない存在を理解するのとは異なり、より広い概念を指し示すことばです。
また伝統的には、色は、転変し破壊するところから変壊(へんね)の義、または形質があって互いに障碍(しょうがい)するところから質碍(ぜつげ)の義に解釈されます。
『般若心経(はんにゃしんぎょう)』に「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」とあるのは、心理的存在はむろんのこと、形あり色あるものすら空である、つまりそれ自体によって存在をあらしめる自性(じしょう)を欠いたものであり、すべての存在は、縁起(えんぎ)によって存在するものである、ということをいわんとするのです。
[高橋 壯]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
「色」と訳される原語のルーパは、少し限定された意味になりますが、視覚器官としての眼の対象となる、(2)色彩と形態の意味でしばしば用いられます。
色彩と形態は、いずれも視覚器官としての眼が基礎となり、光を必要条件として、視覚像(眼識)もたらす視覚対象です。
色と形のいずれが優先的に知覚されるかという問いは、視覚者の意思や関心、またこれらによって捉えられる具体的な表象にも関係します。
仏教の世界で使う「色」は、広い意味と狭い意味の両方があります。
広い意味で使う場合、例えば「色即是空」(『般若心経』)の「色」というのは、身体(色)、「苦・楽の」感受(受)、「対象の特徴に対する」表象(想)、意思及びそれに基づく諸行為(行)、認識・意識(識)から成る、人や動物の構成要素の一つで、身体を指す。
ときにはまた、目・耳・鼻・舌・皮膚の五つの感官/感覚機能とそれぞれの対象(色形・音声・臭い・味・触覚対象)の全体を指す。
すなわち、広義の「色」はもの(物)、こと(事)全てを指します。
色覚の伝統的な説明によれば、感覚器官の目と対象であるものが触れ合うことによって、色覚(眼識)が生じます。
その後、紀元3世紀頃から、色覚の拠り所としての目、対象としての色形の他に、光(light)、関心/注意(attention)、さらに空間(space)が補助因とされます。
広い意味での科学的な知見が深まってきたということが現している。
五種の感官(五根)、五種の対象(五境)、視覚などの五種の感覚(五識)に、こころ(意根)その「三世の全ての」対象(法)意識を加えて、六根、六境、六識からなる十八の要素(十八界)説が生まれる。
そして、六根、六境、六識の三者の接触(六触)から目、耳などを拠り所とする六種の感受(六受)が生まれる。
例えば、人は何かを見たときに、これはいい、あれは良くないといった価値判断が入ります。
それは「苦・楽」の感覚です。
人はその感覚を覚え、そこで始まるのは六種の渇愛(妄執)です。
仏教では、対象と距離を取ることを大事にします。
中国の古い言葉でいうと「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。
この六種の渇愛、餓えたような欲望を抑えることで苦悩が和らぐのです。