大乗仏教と小乗仏教
紀元前一世紀頃、仏教は大きく二つの流れに分れていきました。
大乗仏教と小乗仏教です。
「小乗仏教」は仏陀(ブッダ)の教えにあくまで忠実な教えであり、「大乗仏教」は仏陀(ブッダ)の言葉を踏まえながら、多くの人々の救済を目的とした教えです。
小乗仏教はブッダ釈尊を至上の存在とし、それをゆるがすことを許さない杓子定規なところがあります。
イスラム教のような一神教にやや近いといえるかもしれません。
出家をしなければ真理を見出すことができないとした点。
象牙の塔にこもり自分たちの解脱のみにこだわり、大衆救済に目を向けなかった点で、大乗仏教の方から「小さな乗り物」という意味の名称をつけられました。
上座の仏教を意味する「上座部仏教」という呼び名も、タイやミャンマー、カンボジアなど東南アジアの国々を示す「南方仏教」という呼び名でも、普通は何のことかわからず混乱する場合もあります。
大乗仏教とはその名の通り「大きな乗り物」です。
前述のように仏陀(ブッダ)は菩提樹のもとで悟りを開いたのち、その真理を自分だけのものにするか、民衆に教えを広めるべきか深く悩んだといいます。
仏陀(ブッダ)白身は自分の教えを絶対視していないこともあって、さまざまな解釈が許されるようになりました。
そのため、小乗仏教を信じるタイやミャンマーの人たちは、僧侶はもちろん一般国民にしても「僧は戒律を守るもの」という考え方があります。
日本の憎が妻帯し、肉食し、酒を食らうのを、彼らは笑い話にしていると聞きます。
小乗仏教の人たちに言わせると、「過ぎたる寛容は仏教を堕落させる。」と考えられているようです。
戒律の厳しい教えは日本人には適していないようです。
大乗仏教の持つ「ほど好い加減」さが、宗教に寛容な日本に根づいたのだと思います。
仏教ではよく自利と利他を言います。
自利は誰でも考えるが、利他はなかなか難しい。
だからといって、自利か簡単かというと、これたってなかなか難しくもあります。
自利がないと暮らしも維持できないので、利他どころではありません。
そうかといって自利ばかりを考えていると、人間が卑しくなる。
これは中道の難しさでもあると思います。