“虚空(こくう)”は無辺であると観ぜられた時、”空無辺処(くうむへんしょ)”を成就します。
仏陀(ブッダ)は、まず仙人と仰いだアーラーラ・カーラーマ仙人を訪ねるつもりでしましたが、彼も彼の子も既に亡くなっていたので、今まで修行を共にしてきた仲間たち(5人の比丘)に伝えようと考え、彼らが移動するといっていた先バナーラスのミガダーヤ(鹿野苑)に向かいました。
悟りを開いてから5週間後のことでした。
彼らはヴァーナラシーの近くにいましたが、仏陀(ブッダ)がそこに着く前に、アージーヴィカ教徒のウバカと逢いました。
この宗派は生活派と呼ばれ、バラモン教・ジャイナ教と並ぶ三大宗派でした。
ウバカは仏陀(ブッダ)との会話の後、去っていきました。
その後、川を渡る為に船渡場へ行っましたが、仏陀(ブッダ)は金銭を持っていませんでした。
そこで、激しい濁流を静めることを条件に、船に乗船しました。
仏陀(ブッダ)が瞑目して激流鎮静を祈ると、激しい流れは穏やかになった言います。
仏陀(ブッダ)は5人の苦行者のいるサルナートの美しい森の鹿野苑(ろくやおん)に歩を進めました。
鹿野苑(ろくやおん)は、鹿が遊ぶような静かな所であったので鹿野苑ロクヤオンと云われています。
五人の修行者は、苦行から脱落した仏陀(ブッダ)を無視することと決めました。
仏陀(ブッダ)には威厳が備わったせいか、彼らは自然と仏陀(ブッダ)をもてなし、会話を始めました。
しかし、仏陀(ブッダ)の教えに即座には承服しませんでした。
それほど単純な真理ではなかったからだ。
仏陀(ブッダ)は、”五種の欲望”について述べました。
一つ目は、視覚を通して情をそそる色象。
二つ目は、聴覚に訴えて情をそそる声。
三つ目は、嗅覚を刺戟して情をそそる香り。
四つ目は、味覚を通じて情をそそる味。
五つ目は、触覚による感触で、情をそそられ触れようとする欲望。
の五つです。
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いかなる修行者でも、これらを喜び享受するものは、災いを招き、悪魔の意のままにされてしまうことを知らねばなりません。
修行者がこれらの欲望から離れ、悪業から遠ざかり、悪魔に見られなくなった時、”初禅(しょぜん)”を成就した者と言われています。
思索を静め、心を安静にし、心身を統一して、粗雑な思考を無くし精神統一ができるようになった時、”第二禅”が成就したとされています。
喜悦に染まず、はっきり意識しながら、身をもって安楽を享受できることを、”第三禅”の成就とします。
修行者が楽を断ち、喜びや憂いを滅し、不苦不落で、無念夢想の”清浄行(せいじょうぎょう)”に達するのを”第四禅”の成就とします。
物質的な形の観念をすべて超越し、物として対立する観念が消滅し、”虚空(こくう)”は無辺であると観ぜられた時、”空無辺処(くうむへんしょ)”を成就します。
空無辺処(くうむへんしょ)をまったく超越し、”識”は無辺であると知り、”識無辺”を超越して、この世に何物も存在しないと言う”無処有処(むしょうしょ)”を成就し、”無所有処”を超越した時、この智恵によって”煩悩(ぼんのう)”は滅ぼされ、修行は完成する。
修行完成により、迷妄執着の濁流を越え、自由に安心して生き、安心して歩み、安心して坐臥(ざが)するのです。
空無辺処(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。
物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。