群生(ぐんしょう)
衆生のことです。
この世に生をうけた多くの生類、人々、世界の人々。
群類ともいいます。
衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。
主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である…さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれたました。
「一切衆生 悉有仏性」
ほんとうのことを話せば、だれにもわかるということです。
「一切衆生悉有仏性」とは、我々一切のいのちあるものは仏になる性、可能性をもっているという意味です。
親鸞聖人は我が身、この世界の姿を
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに...」 (歎異抄)
と、煩悩にまみれた私達凡夫が作る世界は、全てが真実からかけ離れ、まことなることは一切無く、その時々の自分の勝手な都合だけを大事にして生きていると教えられます。
世尊道(せそんどう)の「一切衆生(いっさいしゅじょう)、悉有仏性(しつうぶっしょう)」は、その宗旨(しゅうし)いかん。
・・・・悉有の言(ごん)は衆生なり、群有也(ぐんうなり)。
すなはち悉有は仏性なり。
・・・・衆生の内外(ないげ)すなはち仏性の悉有なり。
(『正法眼蔵』仏性の巻)
これは『涅槃経』というインドの仏典の中にある言葉で、これはインド、中国、朝鮮半島、或いはチベット、大乗仏教というものが伝わったところの国には、全てこの言葉は知られている有名なところです。
「一切の世尊道」と書いているのは、釈尊がお説きになられた教えというものに、〈一切衆生、全ての生きとし生けるものには、ことごとくに仏性が仏になる可能性がある〉と言っているけれども、その意味は何でしょうか。
そこに、「悉有の言は衆生なり」と〈ことごとく存在するもの〉という、この意味は何かと言うと、それは〈生き物のことで、生類全て〉である。
それは群をなしているものであると、「群有」というのは〈群をなしてあるもの、存在しているもの〉です。
〈全て存在しているもの、群をなしてあるものはみなこれは仏になる可能性をみんな備えているものばかりである〉とあります。
全て存在しているものの内にも外にも、自分の中の身体の中のこと、或いは自分の身体を取り巻くもの全て、これは仏になる可能性の全てそのものです。
仏になる可能性そのものであるということですね。
ここでは存在しているもの、ネズミに至るまで、生きとし生けるものは、みな群をなして存在しているものは、ブッダになる可能性を持っているということです。
ただし、その時に「修せざるには現れず 証せざるには得ることなし」、つまり、修行しなければいけないということです。
ネズミにもあるけれども、修行をしなかったら、それは現れない。
自分のものにして、修行によって体験しなければ、自分のものとして、手に入れることは出来ない〉ということなんです。
だから、どんなものにでもあるんですが、「修せざるには現れず証せざるには得ることなし」がそれが条件なのです。
難しいですが、
「仏陀になる可能性は生きているのの全て(衆生・群生(ぐんしょう))にありますよ、でも修行したものだけですよ」というでしょうか。