回心(えしん)
信仰心のなかった今までの心をひるがえして、正しい信仰に入ることです。
仏教における回心とは、古い自己が死んで新しいわたくしが生まれたということである。
「回心」について
親鸞は、世間でいわれる“懺悔(仏教では「さんげ」と読む)”や“回心”といった類の事柄は、全て“自力のはからい”として斥けているのです。
そして“回心”という言葉に関しても、所謂、日常の些末的な場面でもよおす“改心”などではなく、往生ということについてのみ、この言葉を用いたのです。
この、日常生活における“改心”は、いうなれば“反省”のことです。
信心を得たからといって、自身が超人的に変貌を遂げるものではありません。
自身の日常は至って「信前信後」の相違はない。
「造悪無碍」や「本願誇り」の類とはスレスレのところで生きている現実があります。
「懺悔滅罪(さんげめつざい)」という言葉がいます。
仏菩薩に自らの罪業を懺悔して、滅罪の功徳に与るというものです。
『涅槃経』には、阿闍世王の「懺悔滅罪」(=反省すること)が示されています。
阿闍世王は父王を殺害した悪業によって、身体を病む。
結果、これまでの悪業を「懺悔滅罪」し、釈尊に帰依することによって、心身は癒えていくのだと思います。
回心とは、“心を悔い改める”ことではなく、“心を他力に任せる”ことではないでしょうか。