仏教のことば:「一味(いちみ)」

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一味(いちみ)

釈迦の御法は唯一つ一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に花咲き実なるぞあはれなる

仏法は貴賎・男女・大小に関わりなく平等無差別であることを「一味」といいます。
海水はすべて同一の塩味であるのに喩えたものです。
『正信偈』にも「如衆水入海一味」とあります。

そこから、一味同心(心を一つにして味方をする)一味徒党(同志の仲間)などの語句が生まれました。
しかし、悪党の一味などは穏やかでありません。

『梁塵秘抄』はさらに続けます。

阿弥陀仏の誓願ぞかへすがへすもたのもしき
一度御名をとなふれば仏に成るとぞ説いたまふ
我等は薄地の凡夫なり善根勤むる道知らず
一味の雨に潤ひてなどか仏にならざらん

一味同心(心を一つにして味方をする)

いちみどうしん. 意味, 同じ目的をもって結束すること。または、同じ目的をもち集まり、心を一つにした同志、仲間のこと。 「一味」は同じ目的をもつ同志、仲間のこと。 「同心」は志を同じくすること。

仏教では、ブッダの説法が一味であるといわれています。

時や場所、相手によって多様な説かれ方をしていても、その本旨が変わらないことを意味しています。

ブッダは、人を生まれや能力や経歴によってわけへだてすることは決してありませんでした。

それぞれが調和し合いながら、輝いて人生を尽くしていく道を説き続け、ブッダが、誰もが何ものにも代えられないかけがえのない存在であることを見抜いていたからです。

ブッダの説法が一味であるのは、私たちが本来は一味の世界を生きているからなのです。

仏典には、どれほど味の違う河の水であっても海に入れば一味となる、という譬えもあります。

海に流れ込んだ河の水が「俺は元は○○河だ」と主張することはありません。

一味の海を自分自身としているのです。

現代は、優劣や役に立つ・立たないといった価値づけによって、存在のかけがえのなさが見えにくくなっています。

働ける・働けないといった労働力としてのみ人間を評価することも起こっています。

これらは、人間の損得勘定だけでは計れない「一味の世界」を知らないからだと思いますね。