仏教のことば:「来迎(らいごう)」

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来迎(らいごう)

臨終のとき、仏や菩薩が来現して、その人を浄土へ導き迎えることです。


仏・菩薩が衆生(しゆじよう)を迎えに来ること。とくに念仏行者が臨終のときに,阿弥陀仏が諸菩薩とともに雲に乗り,死者のところへ迎えに来て,極楽浄土へ導き引きとることをいう。来迎引接(いんじよう)と熟し,迎接(ごうしよう)とも略する。阿弥陀仏の来迎は阿弥陀仏四十八願のうちの第十九願に示されている。第十九願は〈来迎引接の願〉とも〈聖衆来迎の願〉ともいわれ,〈たとい,われ仏となるをえんとき,十方の衆生,菩提心を発(おこ)し,もろもろの功徳を修め,至心に願を発して,わが国に生れんと欲せば,寿(いのち)の終るときに臨みて,(われ)もし,大衆とともに囲繞(いによう)して,その人の前に現ぜずば,正覚を取らじ〉(《無量寿経》)というものである。
出典 株式会社平凡社

臨終にさいして、阿弥陀仏が諸菩薩とともに雲に乗り、死者を迎えに来て、極楽浄土に導くことを言います。かつて阿弥陀仏像の手に五色の糸を掛け、これを自らの手に持ち、阿弥陀の来迎を待つ「臨終行儀」が重視されました。真宗の教義では臨終来迎を必要とせず、また浄土宗西山派では阿弥陀仏の救済の働きを来迎といっています。

特に念仏行者の臨終に際し、阿弥陀仏が諸菩薩とともに雲に乗り死者を迎えに来て、極楽浄土に導くことを言う。かつて阿弥陀仏像の手に五色の糸を掛け、これを自らの手に持ち、阿弥陀の来迎を待つ「臨終行儀」が重視された。

真宗の教義では臨終来迎を必要とせず、また浄土宗西山派では阿弥陀仏の救済の働きを来迎といっている。

「お迎え」という言葉には、阿弥陀様が迎えに来てくれて、浄土へと連れて行ってくれるのだという感覚があるのでしょう。
「お迎え」のことを仏教では、「来迎(らいごう)」と言います。

「来迎」とは、臨終の時、助けてもらおうとする諸行往生の教え(自力の教え)なのです。
しかし、弥陀のご本願に抱かれた念仏者は、今ここで確かな救いのはたらきに出遇い、浄土往生が決まった身ですから、臨終を問題にすることなく、来迎をたのむ必要もないのです。

一人ではない、阿弥陀様と共に歩んでいる人生なのだとお念仏させていただきましょう。

来迎とは、浄土教などの考え方で、人が亡くなる時に一心に念仏を唱えると、仏が迎えにくることをいいます。

仏画には来迎図があり、平安中期以降の浄土信仰の広まりとともに盛んになりました。阿弥陀仏が菩薩を従えて、衆生を極楽浄土に迎えとるために人間界に降りてくるというようすが描かれたものです。

来迎の三尊は、死にゆく人を迎えに来る、阿弥陀仏、観音、勢至の三尊です。

来迎図では、阿弥陀如来の左脇侍、観音菩薩は蓮台という蓮の形の台座を持ち、右脇侍は勢至菩薩で合掌をしています。三尊は紫雲の上で、坐像か立像として描かれています。

臨終の際に南無阿弥陀仏を一心に念じて極楽往生を願うことを、臨終正念と言います。

仏は極楽浄土へ導くために、紫雲に乗って迎えに来るといわれています。紫雲は紫色の雲で、仏が乗って来迎するため、吉兆で縁起の良いものと言われています。

来迎は御来迎、御来光と同義で、富士信仰の時代には、登山者が山頂で日の出を拝すると、御来迎を見られるとされていました。