仏性(ぶっしょう)
全ての人間の心にそなわる仏となる可能性。
仏教の根本的概念の一つ。
覚性,如来蔵とも。
仏陀の本性,悟りそのものの性質,また未完ながら衆生の仏となる可能性をいう。
仏性については,大乗・小乗の差をはじめ,大乗の諸派でも種々に説かれる。
衆生も仏も仏性に変りないとするのが理仏性。
修行によって獲得すべしとするのが行仏性である。
《涅槃(ねはん)経》は仏性はすべての衆生に内在すると説き,生得仏性という。
天台では三因仏性,真言では悉有(しつう)仏性,浄土では信心仏性を説く。出典 株式会社平凡社
仏性とは仏の性質や仏になり得る可能性の事で、大乗仏教独特の教理となります。
仏教の考えでは仏性を開発し自在に発揮する事により、自身に煩悩が残っていたとしても苦しみから開放され、他の生命全ての苦しみを救っていく事ができるとされています。
また、仏法を修行する上での究極の目的とされるのは、仏性を有効に活用して成仏する事だと言われています。
仏性論とは仏性(如来蔵と同義)を体系的に説明する大乗の論書で、
縁起分、破執分、顕体分、弁相分で成り立っており、
如来が「一切衆生悉有仏性」を説いた事を述べる事から始まります。
「一切衆生悉有仏性」というのは「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と読み、
全ての生命は仏陀になる可能性(冒頭で述べた仏性)を持っており、
悟る可能性を持っているという思想の事となります。
善導大師は、
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す
“現に、私は極悪最下の者、果てしない過去から苦しみつづけて、未来永遠に救われることのないことが、ハッキリ知らされた”
とおっしゃって、仏になる性など微塵もないと告白されています。
親鸞聖人も、
一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し(『教行信証』信巻)
“すべての人間は、果てしない昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごとたわごとのみで、真実の心は、まったくない”
と、人間には善のカケラもないことを明らかにされています。
私たちに仏になる性なんかあるはずがありません。
経典の、「悉有仏性」(すべてに仏性あり)はウソなのかといいますと、決して偽りではありません。
仏性というと、誰もが何か金の玉のようなピカピカ光っているものを考えがちですが、それは間違いです。
仏性とは、私たちに仏性あらしむる仏智のはたらきをいうのですから、「悉有仏性」とは「悉有は仏性なり」ということです。
このように普遍的に存在しています仏性から、私たちに作用してくだされるのです。
犬には仏性はありませんが、仏性は犬にもはたらいているということです。
五つの不思議を説く中に
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓に名づけたり(高僧和讃)
“世の中に不思議なことが五つある。
中でも釈尊は、「仏法不思議」以上の不思議はないと説かれている。
「仏法不思議」とは、弥陀の救いの不思議をいわれたものである”
と親鸞聖人はおっしゃっています。
仏に成る縁なき私たちを救う、十方遍く照らす阿弥陀仏の不思議な光明であり、本願力をいうのです。
一切衆生悉有仏性」は要約すると「全ての生命は仏性を持っている」という説となります。
しかし、これにはいくつかの意見が有り「草木等のように精神性を持たないものも仏性がある」とする説や、
「精神性を持たないものは仏性がない」とする説があります。
「無門関(むもんかん)」には「趙州狗子(くしぶっしょう)」という公案があり、
そこには「狗子に還って仏性有りや無しや(犬にも仏性があるでしょうか?)」という問いに対して、
趙州和尚が「無」と答えたという内容があります。
これは禅者が最初に与えられる課題とされ、解くのに最低でも3年はかかる問題だそうです。
「一切衆生 悉有仏性」とは、我々一切のいのちあるものは仏になる性、可能性をもっているという意味です。
「人心の至奥より出づる、至盛の要求の為に仏教あるなり」
という言葉があります。
人間の心の最も奥底からわき出てくる最も盛んな要求の為に仏教があるというのです。
生活の中で起こってくる時々の、様々な欲望を満たす為に仏教があるのではない。
心の底から願っている要求に応えて下さるのが仏教です。
仏性の意味を平たく言えば“いのち”といっていいと思います。
だれにもこの“いのち”がそなわっていて、それゆえに、みな平等であるというのがこの経典(涅槃経)の中心思想ではないでしょうか。