仏教のことば:「外道(げどう)」

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外道(げどう)

インドでの仏教以外の他宗教の教え、またその信奉者。
異教徒、仏教以外の宗教家、修行者。
外教・外法・外学ともいいます。
仏教のことは内道・内教・内法・内学といいます。
正道ではないもの、異端。

「外道」というと、世間ではほとんどの場合
「卑怯な人」をいいます。

世間で外道というと、「道に外れた人」という意味で、卑怯な人や、邪悪な人、ずるい人がいわれます。

たとえば、権力者でありながら、庶民を苦しめて私服を肥やし、栄耀栄華を極めている人は外道です。

また、力の強いボスで、困っている人から暴力で金品を巻き上げる無慈悲で残酷な人も外道といわれます。

また、頭がよく、人前ではニコニコと人格者を装いながらも、裏ではしたたかに他人を犠牲にして自分の利益をはかっていく人も、外道です。

このように、人の道に背き、邪悪な心を持った卑怯者を世間では「外道」といいます。

釣りの世界では、釣ろうと思っていたのと違う魚が釣れたとき、
外道といわれますが、魚がかわいそうです。

ところが「外道」は、もとは仏教の言葉で、もっと深い意味があります。

仏教で「外道」は「外学」ともいいますが、
「道」とは教えということですから、
「真理に外れた教え」
「真理の外側の教え」を外道といいます。
真理に反している、真理ではないということです。

『維摩経義記』には、
「法の外の妄計、これを外道と称す」
とあります。「法」とは真理ということですから、「真理の外側の間違った考えを外道という」ということです。

真理とは、いつでもどこでも成り立つものです。
「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理は、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理ですから、因果の道理に反した教えを外道といいます。

世間でいわれる他人を犠牲にして、自分が幸せになろうとする人も、因果の道理に反していますから、仏教でいう外道ともいえますが、仏教でいう外道はもっと広いのです。

2600年前、お釈迦さまの時代のインドでも、色々な教えがありました。

例えばこの世を創造した最高神がいて、すべてはその神を原因とする教えがありました。
また、すべてを生みだした神はいないけれども、すべては過去の原因によって決まってしまっているという宿命論もありました。

または、すべては何の原因もなく生じ、何の原因もなく消えるという考え方もありました。

一方では神によってすべては生み出されたといい、また一方では神などいないといいます。
ある教えでは、すべては過去の原因によってすでに決まっているといい、ある教えでは、原因など何もないと主張します。

これらの教えは、結局は同じことを教えられたどころか、同時には成り立たず、お互いに矛盾しています。

仏教では、このような教えはすべて因果の道理に反する教えとして、「外道」といわれます。

ブッダは、『涅槃経』
「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく」
と教えられています。

「外学(げがく)」とは外道のことです。

お釈迦さまの当時、インドには、
六師外道(ろくしげどう)といわれる6人の思想家がいました。

その6人には、それぞれ16人の弟子がいましたので、
それらを全部合わせると、6×16=96で、
96種類の外道があったのですが、
その中で、1人だけ、因果の道理に似たことを教えていたので、
96−1=95で、「九十五種」といわれます。
ですから「一切外学の九十五種」とは、
仏教以外の全宗教のことです。

ブッダが
「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく」
と教えられている通りです。