廓然無聖(かくねんむしょう)
ダルマ大師が、中国の梁(りょう)の武帝の問いに答えた言葉として有名。
つまり、からりと天地いっぱい晴れ渡っているようなもので、何もないという意味になります。
不満や疑念などのわだかまりがなく、聖なる真理などないと悟ること。
「廓然」は心が広々としていて、わだかまりなどなにもないこと。
「無聖」は凡人と聖者の差がないという意味。
仏教の言葉で、古代中国の南北朝時代の梁の国の武帝が、インドから来た達磨に聖諦第一義のことを尋ねたという故事から。
禅宗の初祖菩提達磨大師の言葉で、悟りの境地を一言で表わした語として知られる。
「廓然」とは台風一過の青い空のように晴れやかでさわやかな境地であるそこには汚れた迷いや煩悩はひとかけらも無い、そればかりか尊い悟りさえない。
そこはあらゆる言葉を絶した絶対的無一物の世界だ。
山川草木・花鳥風月は皆 今もその世界で生き生きといのちを輝かせている。
達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。
例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。
ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるでしょう。
その時の心はどんな状態でしょうか。
スカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。
これを「廓然無聖」と言います。
お布施を例に取りますと、一般的には、お寺へお包みする金銭と考えるでしょう。
しかし元来は布を施すことで、お寺で信者さんがお坊さんに白い布を施しています。これがお布施だですね。
私たちはお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。
受験シーズンになりますと、どうか希望する大学に、高校に受かりますように、また良い会社に入れますようにと神社やお寺に合格祈願をします。
わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。
しかし、そこにある合格したいという自我が煩悩を招くのです。
それを戒めているのが「廓然無聖」です。
「廓然無聖」は無心になることです。
「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。