優波離尊者(ウパーリ)
持律第一の優波離(うばり)
優波離はインドのカーストでも下層のシュードラの出身でした。
仏陀(ブッダ)がまだ悉多(シッダルタ)といわれた太子の頃カピラ城で釈迦族のもとで、なんと阿那律の奴隷として仕えていた理髪師だった優波離ですが、仏陀(ブッダ)に願い出て、釈迦族の王族とともに出家が許されました。
その中には、後に多聞第一の尊者となる阿難や天眼第一の尊者となる阿那律、そして教団にとっては反逆者となる提婆達多(だいばだった)もいました。
この時、阿那律より「世尊よ、願わくば理髪師優波離を本日授戒の最初として下さい」との申し出があったので、仏陀(ブッダ)は優波離を最初の授戒者とされました。
そして仏陀(ブッダ)は「出家以前においては身分の違い、地位の高低など種々あるが、出家後はすべてその差別などはない」と述べられ、優波離を敬うよう諭されたそうです。
仏教教団(サンガ)ではすべての者は平等でしたが、ただ一つ序列がありました。
それは出家順位です。身分や年齢に関係なく先に出家した者が先輩であり兄弟子になるのです。
その儀礼に従い阿那律達も優波離に礼拝したのです。
これを見て仏陀(ブッダ)は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と賛嘆せられたとのこと。
「本来人間に階級などない」という当時としては革命的な仏陀(ブッダ)の教えが示された事例の一つです。
優波離が「持律第一」と言われたのは戒律に精通しそれをよく守ったからです。
優波離はたいへん律儀な性格の持ち主であったようです。
戒律に精通し、よく守ったことから、後に阿羅漢果(悟り)を得て、持律第一の尊者と称されるようになりました。
尊者について特筆すべきは、仏陀(ブッダ)滅後、大摩訶迦葉尊者の提唱により、王舎城(ラージャグリハ)の七葉窟に500人の阿羅漢を集めて行われた第一結集(けつじゅう)(経典編纂会議)において、戒律部門を確認し纏める責任者として、出家比丘・比丘尼、教団が堅持しなければならない戒律の整備に尽力されたことだと思います。