第25章は「修行僧」について説いています。
正に自己は自分のあるじであり、
自己は自分のよりどころである。
故に自己をととのえよ。
よい馬を育てるように。
自己という言葉と自分という言葉を使い分けています。
自己と言うのは、自我と言ってもいいでしょうか、自分はこうしたいとか、自分の考えはこうだなどと言う心のことを指します。
自分と言うのは、あの人、この人などの意味としての私です。
身体を含めています。
私の手であり顔です。
また、自己をも包含しています。
すなわち私の全体を自分と表現しています。
この詩の第一行、「正に自己は自分のあるじであり」ということは、手足を含めた私という自分は、私の心に従って行動していると言うことです。
私の主人は私の心なのです。
手を上げるも下げるも、私の心次第です。
この心、すなわち自己であり自我が主人であって、私という肉体を含めた自分はその主人に従っていると思います。
自分は、一体どうしたらよいのかといえば、結局は自分の心を頼りにするしかないのです。
他人がいろいろ教えてくれたとしましょう。
ある人はこうするといいよとか、別の人はああするといいよとか教えてくれたとき、どちらの意見を参考にするかは私の心が決めることになります。
私の心が正しい方の意見を採用してくれればいいのですが、間違ったほうの意見を取り入れたとすれば、私と言う自分は誤りを犯してしまうことになります。
人様を頼りにすることはできないのです。
参考にすることしか出来ないのです。
結局として、頼れるのは自分の心なのです。
これが正しいかどうかで結果が違ってきてしまいます。
執着するのも自己である私の心です。
その結果苦を招くことになります。
いつでも正しい判断が出来るように、私の心を整えなくてはなりません。
理屈だけわかってもだめです。
いつでも心が正しく働いてくれなければなりません。
修練が必要です。
修行が必要なのです。
そうして心を正しく整えていかねばならないと仏陀は説いています。