第18章は「汝はと」目の前にいる「私」に直接説いている章です。
汝の命はと、直接話しかけてきています。
不特定多数の人に説いているわけではありません。
命は終わりに近づいたといっても死を間近に迫った状態を言っているのではありません。
二十歳を過ぎたか、三十歳を過ぎたかわかりませんが、すでに人生半ばに入った私に説いていられるのでしょう。
閻魔大王が出てきます。
仏陀は輪廻を実在しないとされ、地獄の実在も否定されています。
もちろん閻魔大王の実在も否定しています。
そう言った方が分ってくれやすいときにはそう言うのです。
ある程度分ってから、更に深く説明すると言う手段を取るということです。
死出の旅路ということもおなじです。
脅かしているわけです。
おろかな私が老いて死するまでの道のりにおいて、心の休まることがなく、また心を潤す糧もないと示していると思います。
今すぐ真理を勉強しなさい。
法を悟りなさい。
そうして賢い人になりなさい。
正しい道をきわめ、人としての生き方において悪をなさず、善行を重ねるならば、そこには生きるとか死ぬとかという問題はなくなるであろうと説いています。
空の思想が根本にあるからだと思います。
空とは縁起でもあります。
生も死も含めて、全てのものは、独立には存在しません。
変化しないものはない。
そういう実体は存在せず、そこにある生も死も実在するものではないことに気がつくであろうと言っていると思います。
そうすれば自ずから、心は豊かになり、安楽を得られると説いているのだと思います。
235
汝はいまや枯葉のようなものである。
閻魔王の従卒もまた汝はいま死出の門路に立っている。
しかし汝には資糧(カテ)さえも存在しない。
236
だから、自己のよりどころをつくれ。
すみやかに努めよ。
賢明であれ。
汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237
汝の生涯は終りに近づいた。
汝は、閻魔王の近くにおもむいた。
汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238
だから、自己のよりどころをつくれ。
すみやかに努めよ。
賢明であれ。
汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239
聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、──鍛冶工が銀の汚れを除くわように。
240
鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241
読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(イエ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
242
不品行は婦女の汚れである。
もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。
悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243
この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。
無明こそ最大の汚れである。
修行僧らよ。
この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244
恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
□ちょっとわかりやすく
心のよごれた者は、生活しやすい。
しかし、やがて苦しみが訪れる。
245
恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246
247
生きものを殺し、虚言(イツワリ)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248
人よ。
このように知れ、──慎みがないのは悪いことである。
──貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。
249
ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。
だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250
もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251
情欲にひとしい火は存在しない。
不利な骰(サイ)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。
迷妄にひとしい網は存在しない。
妄執にひとしい河は存在しない。
252
他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。
ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。
しかし自分の過失は、隠してしまう。
──狡猾な賭博師が不利な骰(サイ)の目をかくしてしまうように。
253
他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。
かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
254
虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。
ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255
虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。
造り出された現象が常住であることは有り得ない。
真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。