仏陀の物語(15)「有我」と「無我」について説く

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「有我」と「無我」について説く

無我ということは仏教の中では重要な、基本的要素と言えるでしょう。

仏陀(釈尊・釈迦)のいう無我とは、無我夢中とか忘我恍惚の境を意味するわけではないと思います。

逆に、人々は「我」というものを明晰に観察し、冷静に照観することを説かれています。

肉体がそのまま我であるとも言わないし、霊魂のようなものの存在を仮定してそれを我であるとするような説もとりません。

最も近い表現でいうならば、それは花の香りのようなものかもしれません。

「花の香は、その花弁から発しているでしょうか?。

否です。

或いは茎にあるでしょうか。

あるいは、しべに香りがあるでしょうか。」

何れも正しいとは言えないでしょう。

それでも、花には香りがあるのです。

人間の「我」もまた、肉体にあるというも正しからず、感覚や意識の世界が我というのも当りません。

ところがそれらを離れて、「我」の本質があるわけではない。

すべてを統一したものの中に「我がある」と言う以外に説きようはないのです。

このように、「有我」は「無我」と同じことであると仏陀(釈尊・釈迦)は説いています。