仏陀の教え(11)無常とは

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ブッダの説く無常は「無常観」。

無常とは

無常とは無常とは虚無ではなく、物事が成長するプラスの面を見ること四苦八苦は人間が生きていくうえで付いてまわるとブッダはいいました。

そしてさらに「無常に基づく苦」があると。

無常というと日本人は『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」を思い出します。

「人生の短いことをはかなむ」といった意味でとられがちですが、仏教の経典に出てくる「無常」は少し意味が違うようです。

無常というのはブッダの教えそのものですけれど、日本では今、非常にセンチメンタルでマイナス的なものとして、とらえられていました。

これは無常を感情や情緒として感受するためです。

感情的にとらえると、どうしても虚無的になりやすいのですが、それはいうなれば「無常感」といったものです。

ブッダの説く無常はそうではなくて「無常観」。

すべて存在するものは絶えず移り変わっていると観察する人生観であり世界観です。

経典では、人間が「生あるものは必ず死ぬ」という赤裸々な事実や現実をそのまま受け入れたとき、そこにある種の深い感動が生まれ、そこから感嘆がわき出てきます。

それが「無常」だといっています。

つまり、「無常に基づく苦」というのは「生あるものは必ず死ぬ」という事実そのものを指しているといっていいでしょうか。

その事実を受け入れて、なおかつ前向きに生きていこうということでしょう。

ブッダが成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。

この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。

この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。

なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本人と「無常」
「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできません。
単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされています。
「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされています。
「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言って良いでしょう。