仏教のことば:「菩提(ぼだい)」

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菩提(ぼだい)

正しい覚(さと)り、寂静の境地。

普通は成仏することを指しています。

仏教の根本理念で,サンスクリットbodhiの音訳であるが,訳して覚,智,道などとする。
仏教はすべて菩提の何たるかを説き,菩提を獲得するのを目的として,その実践修行の方法を説く宗教である。
したがって仏教の礼拝対象は菩提を得た〈覚者〉,すなわち仏陀buddhaで,略して〈仏(ぶつ)〉という。
そこでこの覚者は何を覚るかが菩提の内容になるが,それは諸法皆空,すべて存在するもの(色)には実体がない(空)という真理である。出典 株式会社平凡社

菩提とは、仏のさとりのことです。

『阿弥陀経』などに出てくる
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の略です。

「阿耨菩提(あのくぼだい)」ともいいます。

これは、仏教で教えられる52のさとりの中でも、最高のさとりである仏のさとりす。

よく、亡くなった方の冥福を祈ったり、何かお供えして供養することを「菩提を弔う」といいます。

これは、死んだら仏になれると思っている人が使いますが、仏教では死にさえすれば仏になれるわけではありませんので、この使い方は仏教では間違いです。

地球上で仏のさとりを開かれたのは、世界の四大聖人、三大聖人といってもトップにあげられるお釈迦さまただ一人です。

ですから「釈迦の前に仏なし 釈迦の後に仏なし」といわれます。

その大宇宙最高のさとりを「菩提」といわれるのです。

世俗の迷いを離れ、煩悩を絶って得られた悟りの知恵。
悟りを開いて、涅槃に入ること。
転じて死後の冥福を言います。
「菩提を弔う」とは冥福を祈ることです。
日本の寺院ではインド仏教のように、修業者が菩提 (悟り)を勝ち得る修行の場というよりは、死者の菩提を弔う機能を果たしています。

菩提はサンスクリット語ボーディの音写です。
智、道、覚、などと訳します。
菩提は、さとりの結果として得た智慧のことで、声聞しょうもんの菩提、縁覚えんがくの菩提、仏の菩提、の三つによく分けられます。

声聞は説法を聞く人という意味で、弟子のことです。
出家した修行僧だけを意味する場合もあります。
縁覚は独覚どっかくともいいます。
師匠なしで独自にさとりを開いた人を指します。
色々な縁によって覚さとるので縁覚といいます。
仏の菩提=仏のさとりの智慧、が最高のもので阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいと呼ばれます。
般若心経に出てくる、あの言葉です。
無上正等正覚と訳されます。
無上正真道、無上正遍知、と訳される場合もあります。

仏教は菩提を得ることを目的として、その実践方法=修行を説きます。

人間の歴史は煩悩の歴史だと言えます。

恋愛に悩み妬みに苦しむのも、また家庭での嫁姑の争いや、国の戦争もすべて煩悩から生じて来るものです。

煩悩の代表的なものはつぎの3つであります。

貪欲(とんよく) = むさぼる心。
衣食だけでなく、名誉・財産を貪る心。

瞋恚(しんに) = 瞋り(いかり)の心。
人に対してばかりでなく、周囲の動物、自然に対して怒る心。

愚痴(ぐち) = おろかな心。
世の中の道理が解らないので自分の思い のまま生活し、物事の善悪のみさかいがなくなる心。

この3つを「三毒」といいます。

日常生活を深く反省すると、必ずこの煩悩が心の中で渦巻いているのに気がつきます。
これが苦しみや悩みのもとです。
昔から人間はこの煩悩を断ち切ろうと努力してまいりました。

しかし、もともと「心」そのものは善でも悪でもありません。
心が悪にはたらく状態を「煩悩」といい、善にはたらく状態を「菩提」というのです。
煩悩は断ち切れるものではなく、おさえることによって心を良い方向へ向けるしかありません。
ご馳走を食べ過ぎる(煩悩)とお腹をこわし、適当に食べる(菩提)と血や肉となって健康を増進します。
「心」は時と相手によって煩悩となり菩提ともなります。
正しい信仰によって「菩提の心」を高めるよう精進しなければなりませんね。