懐石(かいせき)

温めた石を腹に当てて、飢えをしのいだ「懐石料理」。

お茶の席につきものの「懐石料理」。

これが分かれていったのが「会席料理」。

本来は、簡素な食事を意味することばであり、そのルーツは仏陀(ブッダ)の時代にまでさかのぼることができます。

今でこそ日に三度の職ですが、当時の修行僧たちの食事は一日一回でした。

いくら修行といっても、これではつらいと思います。

そこで彼らは温めた石を腹に当てて、飢えをしのいだといいます。

つまり、石の温度を利用して、体温の低下、体力低下を防いだというわけです。

つまりは、懐に石を抱いた状態であり、それが簡素な食事の代名詞へとなっていきました。

この石のことが「薬石」と呼ばれています。

これが後には、お粥、あるいは夕食を指すことばへと変わっていきました。
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日常茶飯(にちじようさはん)

高尚な真理も、平凡な毎日の暮らしの中で、それこそ、ありふれた行為のごとく実践されてこそ意味がある。

日ごろ私たちは、お茶を飲んだり、食事をしたりすることを毎日繰り返しています。
そのように、ごく日常のことを表しています。

そこから転じて、特に取り立てて言うほどのことでもない、何の変哲もない当たり前の行為を意味する言葉に「日常茶飯事」があります。

お茶は昔から日本人の生活の中に根付いている飲み物なので、このようなお茶に関係することわざや慣用句が多くあります。

日常茶飯事=毎日の有り触れた物事。
参考:茶飯事(さはんじ) 茶を飲み飯を食うように、珍しくもない日常普通のこと。
ごく有り触れたこと。また、日常行っている容易いこと。

さはん-じ【茶飯事】 日常ごくありふれた事
【由来】・・ 昭和二年、正岡子規の理念を受け継いだ高浜虚子の造語で、ホトトギス派の基本理念であり、 俳壇に大きな影響を与えました。

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千日回峰行

「一日一生」の中に、「足が疲れたら、肩で歩け」

「一日一生」の著者である酒井雄哉(さかいゆうさい)師は比叡山に千日回峰行を二回成し遂げた超人的な僧侶だそうです。

一体千日回峰行とはどんな行なのでしょうか。

千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行です。

千日といっても連続して3年間という意味ではなく、7年間をかけて通算1000日の間行なわれます。

行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行します。
頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちで、七年間にわたる行のことをいいます。

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道楽(どうらく・どうぎょう)

今、已に道楽を得る

本職でないことに没頭したり、好ましくない遊興にふけったり、現在、日常語としての「道楽」は、本来の意味からかけ離れ、あまり好ましくない表現として使われているように思います。

身持ちのよくない人間とか、怠け者を、一般に「道楽者」といいます。

さらに、酒色や博打に夢中になっている人間を、「極道者」と呼んだりもしています。

今日でいうマニアの類いにも、やはり道楽という表現がついて回るようです。

「食い道楽」「着道楽」「盆栽道楽」「釣り道楽」「女道楽」といった「○○道楽」というような表現ですね。

仏教では、この「道」について二通りの使い方があります。
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有り難い

有り難いとは、「あることが稀れだ」と

「ありがとう」は感謝する意味ですが、
その語源は「有り難し(ありがたし)」といいます。

原典は法句経というお経に
『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』
とあるように、今生きている私達は、数え切れない偶然と無数の先祖の計らいで生を受けて誕生したのだから、命の尊さに感謝して精一杯生きましょう。
と言う教えから生まれた言葉です。

やがてそれが、当たり前の事を当たり前と思わず、当たり前と思える事にでも感謝の気持ちを表す言葉として『有り難し(ありがとう)』になったようです。

仏教では、人間に生まれたことは大変有り難いことだから喜ばねばならないことだと教えられています。
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