仏教のことば:「余乗(よじょう)」

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余乗(よじょう)

自分の宗派のことを語る事を宗乗(しゅうじょう)といい、他の宗派を語る事を余乗(よじょう)といいます。


宗乗(しゅうじょう)とは数ある仏教の教えのなかで、自らが信じる教えをいいます。
宗義・要義ともいいます。
自らの信ずる教義や歴史を宗乗(しゅうじょう)といい、他宗の教義や歴史を余乗といいます。
宗とは自分にとって最高の教えであり、乗とは大乗・小乗ともいう乗物のことで、迷いの世界から悟りの世界へみちびいていく乗物という意味であります。
宗乗(しゅうじょう)・余乗はもとは禅宗で用いられていたが、やがて各宗それぞれ自宗の教学にこの用語を用いるようになった。
法然は宗について「宗の名を立つる事は仏の説にあらず。
みずからこころざすところの経教につきて教うる義を解り究めて宗の名をば判ずる事なり。

諸宗の習いみなもてかくのごとし。

今浄土宗の名を立つる事は浄土の正依経につきて往生極楽の義を解り究めておわします先達の、宗の名をば立てたまえるなり」といい、宗乗(しゅうじょう)は仏説ではなく人師の説であって、浄土の経典について凡入報土の教えを領解しきわめた祖師の説にもとづくものと説き示しています。
この宗乗(しゅうじょう)を広義にいう場合は、この根本要義を時代に即して組織体系化した教義をも宗乗(しゅうじょう)ということもあります。

仏教とは、お釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの45年間に説かれた教えを仏教といいます。
その内容は、お経に書き残されています。

そのお経全部を「一切経」といいます。
それは七千余巻といわれるたくさんのお経です。
この一切経七千余巻に説かれている教えが仏教ですので、伝統的な仏教の拠り所は一切経です。

仏教を論ずる土俵は一切経であり、この一切経から外れたものは、仏教とはいえません。

余乗という場合、自宗以外の仏教の教えをいうことがあります。

「宗乗」というのは、宗派の乗り物、宗派の学問ということで、これがきっちりしていない場合には、その人の立脚地が不明確だ、ということになるんです

自分の宗乗を深めて行く為には、他の考え方余乗を知らなければ、自分が正しく自身の道を進んでいるかが分かりません。

それはお互い同じことがいえます。

自分の考え方だけしか知らない人を、何とかのかわずといい、傲慢になってしまいます。

互いが互いを知り、尊重しながら自分の生き方を極めることが大事なのです。