仏教のことば:「滅度(めつど)」

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滅度(めつど)

涅槃(ねはん)に入ることです。
迷いの大苦を滅することです。

完全に煩悩を取り除き、悟りの状態になることです。
サンスクリットのニルバーナnirvāṇaをなまった俗語からの音写語と考えられ,そのほか泥洹(ないおん),泥曰(ないおつ),などとも表記される。〈吹き消された〉ことという意味に起源する語で,本来は生命の火が吹き消された状態,すなわち〈死〉を意味するので,滅度(めつど),寂滅(じやくめつ)などと訳された。この語は,仏教では最初釈迦の死を意味したところから,後になって〈迷いの燃えさかる火を完全に消し,悟りに入った境地〉という解釈がつけ加えられた。出典|株式会社平凡社

入滅(にゅうめつ)とは、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットのNirvana、ニルヴァーナの訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。
「涅槃」「泥洹(ないおん)」などとも音写される。また、老荘思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。

ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結するから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。

お釈迦さまは、今からおよそ2500年前に、インドのクシナガラで80歳の生涯を閉じられました。

「亡くなられた」といわないで、「滅度(めつど)された」(入滅度)、「涅槃に入られた」(入涅槃)といいますが、これは「煩悩の火がすべて消された世界」を示します。

お釈迦さまは涅槃に入られる前、弟子の阿難(アナン)にこう言います。

「阿難よ。
向こうの林の片隅にサーラの樹が立っているのを見るであろう。
そこへ行って、私のために床をつくり、枕を北に向けて休ませてもらいたい。
私はひどく疲れた。
今夜半、私はそこで滅度に入るであろう」
阿難は涙を流しながら、サーラの樹の下に行き、清らかに地を掃いて床をこしらえ、その上にお釈迦さまを休ませてあげます。
ここに到着される前、お釈迦さまはパーバというところで説法されていました。
パーバとクシナガラの間は、わずかの距離でしたが、移動の間25回も休まれたといいいます。
どれほど疲れていたのでしょう。

頭を北に、面を西に向かい、右脇を床につけて、足を重ねられます。
すると、不思議なことが起こるのです。
美しい楽の音がながれ、歌声が聞こえ、天の神々が近づいてきます。
サーラの樹は突如、白い鶴にも似た花が咲き、花びらが雨のようにお釈迦さまの上に降りそそぎます。

その時、お釈迦さまは阿難言われます。

「阿難よ。
天の神々が私を供養しに来たのが見えただろうか」
「はい、世尊。
はっきり見えます」
「このようにするのは、心から私を敬い、私に報いる道ではない」
「では世尊。
真に仏を敬い、仏に報いる道はいかなるものでありましょうか」
「阿難よ。
そして、愛する弟子たちよ。
私に報いたいと思うならば、老若男女を問わず、私の説いた教えを大切にし、教えを実践してほしい。
ただひとすじに教えを守りぬく者こそ、私につかえ、私を敬うものである。
香や、華や、伎楽をもってするのは本当の道ではない。
ひたすらに法を守り、法に生き、法のために精進するがよい。
これこそ、こよなき供養というものである。

『涅槃経(ねはんぎょう)』や『仏遺教経(ぶつゆいきょう)』にも、「法に生きる」ことこそ真の供養だととかれています。

正定滅度(しょうじょうめつど)

浄土真宗の法義は、現生(現在の生涯)・此土(しど、この世界=娑婆世界)において正定聚となる利益をえて、来生(未来の生涯)・彼土(ひど、かの世界=極楽浄土)において滅度(成仏)の利益をえるのである。この二つの利益ははっきりと区別されなくてはならず、現生・此土において、わずかでも滅度の利益をえるのではないことを明らかにする。

○「正定」=正定聚の略。正定聚とは必ず成仏することが決定しているなかま。
○「滅度」=煩悩を滅し、迷いの世界を度(わた)るということ。
○ 広門示現相=浄土の菩薩は内に仏の悟りを開いていながら、外に菩薩のすがたをあらわしたもの

「たとひ、われ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚(じょうじゅ)に住し、 かならず滅度(めつど)に至らずば、正覚(しょうがく)を取らじ。」

たとえ私が仏になったとしても、すべての人々がこの娑婆世界で必ず浄土往生が定まり、 この身を終えた後に涅槃(ねはん)を得ることがなければ私は仏になりません。