仏教のことば:「遍路(へんろ)」

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遍路(へんろ)

四国八十八カ所などの霊場を参拝する巡礼者。

様々な巡礼があるなかで、四国での巡礼だけが「遍路」とよばれるのはなぜか?そこには四国の海岸で行われていた、修行の歴史が関係しています。


最初に四国を修行する人々の様子が書かれるのは「今昔物語集(推定1140年前後)」で平安時代に入ってのこと。
しかし、この中では、修行者が厳しい海岸の路を歩き修行する姿が記されているだけで、現代のような遍路の姿とはいえません。

彼らが何を求めて修行していたかは明記されていませんが、中で修行者たちが伊豫、讃岐、阿波、土佐と四国の海岸を選んで修行していることから、当時、海の彼方にあると信じられていた神道上の世界「根の国」へ渡ることを願った修行の一環ではないかと考えられています。

そして、この中で注目すべきことが、修行が行われていた”海岸沿いの道や土地”のことを「辺地」(へち)と称しているという点です。

やがて、この修行に変化が訪れます。
当時、広まりつつあった仏教の流入によって、仏教の中で海の彼方にあるとされていた「補陀落浄土(観音菩薩が住まわれる浄土)」とが「根の国」と重なり。
仏教の拡大と共に、「根の国」信仰と「補陀落浄土」信仰は混同していったのではないかと考えられています。

「梁塵秘抄(1169年)」の中でも海岸沿いを修行する人々が書かれいますが、室戸岬を金剛浄土の入り口と称していることから、このころまでには仏道による修行が根づいていたのではないかと考えられます。
また、この記載の中では、”海岸沿いの道や土地”のことを「辺路」(へじ)と称しています。

その後、補陀落浄土に至るための修行は、大師信仰が四国に広まるにつれ、お大師さまを思い四国を巡る現在のような遍路に変わってゆくこととなります。
その際、当初、海辺の道や土地を表す言葉「辺地」・「辺路」は、「偏禮」「邊路」と変わりその後「遍路」と変化していきました。
また、その読みも中世以降、「へち」・「へじ」から「へんろ」と変化していきます。

この変化についてはその理由を明確に示すものはありません。
ただ、この「辺」という言葉が”端”や”外”と示すことから、験が良くないため「邊」や「遍」などが変わりに使われていったのではないかという説もあります。

現代では「遍路」の一語で”四国での巡礼すること”を指す言葉として使われていますが、この原形は昔から四国にあった、海辺を修行する”土地やその道”を指す「辺地」・「辺路」が語源ではないかと考えられています。

平安期以降、日本各地で密教の広まりと共に弘法大師への信仰が広ります。

大師は讃岐の国(香川県)の出身で、青年期に、四国の山中海岸、太龍岳、室戸岬、石鎚山などで山道修行を行うことで虚空蔵求聞持法の智恵を得たとされています。

そうした事から四国には、大師にあやかろうと、多く僧らが悟りを求め、各地より大師ゆかりの遺跡や霊場に修行・参拝に訪れるようになります。

「讃岐国曼荼羅寺僧善範解案」の中で善範という僧が1065年ごろ件道場(現在の第72番曼荼羅寺)を訪れたことが記されています。

また、「高野山往生伝」の中では沙門蓮待(初期の高野聖)が1098年ごろ”土佐金剛定寺(現在第26番金剛頂寺)”に、西行法師もまた「西行法師家集」の中で弘法大師ゆかり地を巡ったとあるなど、他にも多くの僧たちが弘法大師を思い四国を訪れました。
そして、このことも四国遍路の基礎の一つとなったと考えられます。

現在の遍路は弘法大師信仰にともなうもので、根の国・補陀落浄土への信仰は今の四国にはみられません。
四国での大師信仰の広まりと共に、根の国・補陀落浄土への信仰はその姿を消していったのではないかと考えられています。
いつごろから現在のような大師信仰によって社寺を巡礼する形に変わっていったのかを明確に記載する資料はありません。
歴史資料に遍路の姿が記載さられるようになる江戸期、少なくても遍路が広まりを見せるこの江戸期前後は、「根の国」もしくは「補陀落渡海」を望む修行者と「大師」信仰による巡礼者が交差する修行の地であったと考えられています。

大師信仰が庶民にも浸透してくるにつれ在家の人々の中にも四国に行きたいと願う者が現れてきます。

封建制度はこれまでの政権と以上に民衆に大きな生活規制を強いて、庶民が一時的であれ居住地を離れることは難しくなっていました。
ただし、社寺に巡礼に行くことはだけは唯一の例外として認められており、このことが民衆巡礼をさかんにさせる要因のひとつにもなりました。

四国にも徐々にの庶民が訪れるようなってゆきます。
とはいえ、四国の遍路はまだまだ困難なもので、川橋は少なく、渡し舟さえまばらでした。
遍路道には多くの難所があり「へんろころがし」と呼ばれました。
しかし、それがかえって他の参拝のような観光化が進まず、素朴な信仰が保たれることにもなりました。

四国八十八ヶ所、約1300kmを歩き抜くことは大変ことです。
四国は江戸期以降も街道の整備が遅れていたため、当然、遍路道も大変険しく山道も多い、今よりも八十八ヶ所を歩き通すことは困難な道のりであったはずです。
また、標高900mを超える雲辺寺など社寺が山頂や辺境にを含む様々な場所に点在しているため、起伏が複雑な四国の山道を登り降りは「へんろころがし」といわれ、その様な難所跡が現在でもいくつも残っています。

四国のこのように厳しい巡礼に行くにはそれなりの覚悟と思いが必要であったはずで、物見遊山な観光気分で遍路するというわけにはいきませんでした。
困難な巡礼ゆえに観光化されることなく、そのことが遍路者が純粋な信仰者として人々に支援され続けられてきた要因と思われます。

遍路におけるマナーなど

まず、一番札所の大師堂で「授戒」をうけて順礼に旅立ちます。

授戒=十授戒とは。

不殺生 生き物を殺さない
不偸盗 盗みをしない
不邪淫 邪淫しない
不妄語 うそや偽りをいわない
不綺語 へつらいをしない
不悪口 悪口を言わない
不両舌 二枚舌を使わない
不慳食 むさぼらない

遍路の三信条

1摂取不捨(仏は決して衆民を見捨てず、守ってくださる)を信じ、同行二人でいることを忘れずに。
2愚痴や妄言を慎む。
3現世利益(今生きているこの世での仏の恵み)を感謝し巡拝しながら一つ一つ煩悩を消していく。

お遍路さんの心得

●宿では、金剛杖を洗いましょう
金剛杖はお大師さまの分身です。お大師さまの足を洗うように心をこめて洗いましょう。
●橋の上では杖はつかない
お大師さまが十夜ヶ橋の下で修行なされた故事にちなんで橋の下ではお大師さまがお休みになっておられるといわれています。
●相互礼拝・相互供養
他の同行に会ったときは、「南無大師遍照金剛」と唱え挨拶をかわしましょう。
●参拝後、鐘を撞いてはいけません
帰りに撞くと、出鐘といって、もう一度お参りをし直すことになります。

『打つ』とは?

昔は、木の薄板でできたお札を寺に納め、その板を本堂や大師堂に打ちつけていたことから、お参りすることを「打った」という。

本打ち  八十八ヶ所を全部まわること
順打ち  一番札所から順にまわること
逆打ち  八十八番札所から逆順にまいること
打ち戻る お参りした道をふたたび戻る事
打ち技  来た道を戻らず別の道から次の札所へ進む事

菅笠にかかれた文字の意味

菅傘には次の6つの言葉が書かれています。
「迷故十万空」・「迷故三界城」・「同行二人」・「何処有南北」・「本来無東西」・弘法大師を表す梵字が1字です。
これらは、自然や宇宙の中には永遠の命があり、精進や修行を重ねながら自分もまた無限の命と一体化していこうという遍路の決意を示したものです。

一つだけ許される盗み

いろいろと変わった風習がありますが、三角寺(65番)に伝わる話はお寺には似つかわしくないものです。
いつのころから伝わるかは定かではあれいませんが、

『寺の台所からしゃもじを盗んで帰ると子が授かる』

というものです。
本尊に免じてたった一つ許される盗みだそうです。
ただし無事子供を授かったあかつきには新品のしゃもじを2本持ってお礼参りをするのが決まりです。
次の人のために必ず新しいものを用意するするのを忘れないようにしてくださいね。