仏教のことば:「福田(ふくでん)」

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福田(ふくでん)

田に稲が実るように、種をまけば功徳のみのりの多いことです。

仏・法・僧の三宝をもいいます。


「福田(ふくでん)」とは、幸福が生じる良い功徳の種をまくにふさわしい田んぼ」の意味だということです。

福田には、「敬田」、「恩田」、「悲田」の三福田があり、更に、三福田には、八つの福田に分かれていて、それぞれ、敬田には、「仏」、「聖人」、「僧」、恩田には、「師匠」「あじゃり」「父」、「母」があり、最後の悲田には、「病人(看病福田)」があるそうです。

布施は、一言でいえば、親切ということですが、でも、誰にでも親切をすればいいというものでもありません。
ドロボーが、家に侵入するのに難儀しているのをみて、手助けするのは、これは、とてもよいタネまきではありません。

私たちは、どんな相手に親切をすればいいのでしょうか?
お釈迦様は、それについてもちゃんと教えてくださっています。

それが、三福田(さんふくでん)という教えです。

お釈迦さまは、親切にすべき相手を三つの田んぼに例えて教えられています。
これを三福田といいます。

三つとは悲田(ひでん)(本当に困っている人)
恩田(おんでん)(ご恩を受けている人)
敬田(きょうでん)(敬うに値する人)の三つになります。

三福田に当たる人たちに布施をすると、すばらしい結果が返ってきます。
田んぼにタネをまくと実りを得るのは、タネをまいた本人です。

田んぼは、秋になると、春にまいたモミダネとは比較にならないほどたくさんの米が収穫できます。

お釈迦さまは田んぼに例えられたのです。

ある時、お釈迦さんがコーサラの国周辺を巡っていた時、エカナーラという集落に辿りつきました。

ある日のこと、お釈迦さんは、お袈裟をまとい、食事を受ける鉢である応量器(おうりょうき)を手に持ち、僧侶が家々を廻って、施しの食事を受ける托鉢(たくはつ)に出かけました。

少し朝早く出発したお釈迦さんは、バーラドヴァージャという バラモン教の司祭者の所に行ってみることにしました。

丁度その頃、バーラドヴァージャさんは、500以上にも及ぶ農作業用の道具を整えているところでした。
そして、彼は向こうの方からやって来る人影に気がつきました。

それが托鉢をするお釈迦さんと気がつくや、彼はお釈迦さんにこう言いました。

「お釈迦さん、私は種を蒔き、田を耕して、そして実ったものを頂いています。
あなたもまた種を蒔き、田を耕して、そうしてから食べ物を頂きなさいな」
それを聞いたお釈迦さん。
彼にこのように返答しました。

「私もまた、種を蒔き、田を耕しています。
そうして食物を頂いていますよ」
その返事を聞いて、バーラドヴァージャさんは、怪訝そうな顔をして、お釈迦さんに言います。

「いやいや、私はあなたが牛馬を引かして土を掘り、鍬(くわ)をもって田を耕したり、そんなことしている姿なんて全く見たことがありませんよ。

なのに、今あなたは、自分も種を蒔き、耕しているというのですか?
そこまで言うのであれば、ちょっと私にあなたが耕した田んぼや、耕作のやり方やらを見せてくれませんか?」
お釈迦さんは頷き、詩を用いてこのように説きました。

「信心は種子(たね)となり、我が身のたしなみは雨となる。
精進を牛とし、智慧は手綱となる。
身と心と言葉を調え、戒を持つことは、 轡(くつわ)となり 三繋(さんがい)となる。

反省する心を鋤(すき)とし、気をつける心は耕作人となる。
雑草を刈り取り、土にかぶせ、心を育てる肥やしとする。
善き苗をつくり、心安らかなる福田へと赴く。

このように私は耕し、そうして甘露の果(み)を得るのです」
バーラドヴァージャさんは、お釈迦さんの言葉に大変満足しました。

「いやぁ。
あなたの詩は素晴らしい答えだ。
善い田を耕していることが私にも理解できましたよ」
彼は心満足いく詩を聞いた代わりに、お釈迦さんに食事を与えようとしました。

しかし、お釈迦さんはそれを受け取りませんでした。

「私は、詩を詠んだ代わりとして食事をいただくわけにはいきません。
私はただ法のあり方に住しているだけなんです。

ですからバーラドヴァージャさん。
水の如く、どこにも執着なきよう施してください。
このような布施は、功徳を求める人の福田ですから」
このように教えられ、バーラドヴァージャさんは心に信を増し、後にはお釈迦さんの弟子となったそうです。

お坊さんがいつも身につけているお袈裟。
また、お袈裟の一種である絡子。
これらは別名、福田衣(ふくでんえ)と言います。

「福田」とは仏教で、善き行為の種子を蒔いて、功徳の収穫を得る田という意味で用います。

お袈裟や絡子をよく見ると、田んぼのような形をしていることに気づきます。
畦道(あぜみち)で区切られた大小さまざまな「福田」がそこにはあります。

私は、まじまじと福田衣であるお袈裟や絡子を見ると、このエピソードのことを思い出します。
そしてそれはまた、お坊さんとして生きる私をいつも力づけてくれます。

私は時々、不意にこのように思うことがあります。
人に仏法を伝えることより、他にやるべきことがあるんじゃないか……と。

無力さというべきか、なんというべきか。

例えば、人の命を育む食を生み出す、農家や料理人。
直接人の命を救う医者や救命士。
社会福祉やNPO、カウンセラーやボランティア活動など。

直接人の役に立つ仕事は、世の中には他にもたくさんあります。
法を説くことよりも、はるかに意義あるように思います。

そしてお坊さんとして生きる自分に自信が無くなる時があるのです。
しかし法衣をかける私に、お釈迦さんの言葉が励ましてくれます。

「私も種を蒔き、田を耕しているのだ」と。

どの仕事も全部、「福田」を耕す仕事に変わりがないということです。

これは布施の教えと大きく関わっています。
布施とは対価ではありません。
単に施すことではありません。

布施とは、現代の資本主義の感覚とはまた違った、例えるなら水のような、人や物の流れです。

どんな仕事であろうとも、必ず何かの支えになっています。
そして必ず何かに支えられています。

直接的でなくとも、人も物も全てが巡り巡って支え、支えられています。

その支え合いの流れを私欲という執着の塊でせき止めることなく、執着のない水の如き流れにまかせることが布施です。
そしてそれが、「福田」を育む水となります。

要は、どんな心持ちで行うかが、大切なのです。