仏教のことば:「忍辱(にんにく)」

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忍辱(にんにく)

屈辱を耐えしのんで、怒りの感情を起こさないことです。

六波羅蜜の第三。種々の侮辱や苦しみを耐え忍び心を動かさないこと。忍。


耐えしのび、怒りの気持を起こさないこと。種々の苦難や迫害に耐え、安らぎの心を持つこと。また、その修行の徳目である忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)をいう。

忍辱(にんにく)という修行
仏教の特徴に修行をする、ということがあります。
するとたいていの方は、「火の上を渡ったり、滝に打たれたりすることか」とお考えになると思います。
つまり、身体を痛めつけることが修行である、と思われているようです。
お釈迦様は29歳で出家されて35歳まで激烈な「いわゆる」修行をされたようです。
骨と皮になった仏像を見たことはありませんか。苦行仏といいます。
しかし、身体を痛めつけることでは悟りは開けないと自覚され、座禅を組まれたようです。
その後、お悟りをえられたのが、今からおよそ2,400年前、12月8日明け方といわれています。
では、仏教における修行とは何なのか。
心を変えるための行い、と思います。
一般に心があって行いが続く、と思われていますが、心なんてころころ変わります。
もともと短気な人とか優しい人ということはありません。
なんでもかんでも短気、という人を知りません。
つまり、私たちの考えとは逆に、行いを正していくと、心が正されていく、ということです。

修行は様々ですが、忍辱という修行のくくりがあります。
堪え忍ぶ、ということです。
言葉なんていい加減、人間のやることはいい加減、と思ってくだされば、耐えることは出来たのではないかと思いますが。

ブッダの言葉では、「カンティー パラマン タポー ティティッカー)」という言葉があります。

それはブッダの言葉で、真理そのものです。

意味は「最高の修行は、忍耐・忍辱(にんにく)である」と。

修行の中でランクがあります。
最高ランクの修行というのは、忍耐です。
忍耐の修行と言うのは、お釈迦様が、生きることは学校であるという立場で語られています。
つまり、24時間、生きるということは、瞬間、瞬間、何か問題が出てくる。
何か気に入らないことがある。
何か腹が立つことが出てくる。
何か誘惑されることが出てくる。

そこで、瞬間、瞬間、一分、一分、忍耐を修行すると、それが最高の修行で、それで解脱に達するといわれています。

特別に冥想しなくても大丈夫です。
それが冥想になるのです。

自分に課題が出てきたら、忍耐することはこの上のないチャンスなのです。
いつでも忍耐しなくちゃいけない。
いわゆる「それほど気にしない」という対応をする。
忍耐というのはそういうことなんです。

寝たきりの人が、身体が汚れてしまったら、「ああ、なんて嫌な」ではなくて、「まあいいや、洗ってあげればいいんだから」と、そこで忍耐・忍辱という二つを実行する。

特に介護の場合は、忍耐・忍辱が出てくる現場ですね。

悲しいことや辛いことがあっても、落ち込まないで頑張ることです。
物事の本質をしっかりとおさえて、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。