仏教のことば:「入室(にゅうしつ)」

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入室(にゅうしつ)

修行者が指導を受けるために師家の室に入ること。
また弟子となることをもいう。


① 禅宗で師の居室に一人ではいり、修行上の教えを受けたり、自己の修行の成果を試してもらうこと。
② 真言宗で灌頂を受けて、師の仏法を継承すること。

悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。 もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んで・・・<夏目漱石「夢十夜」青空文庫> より引用

現在の臨済宗の修行の特徴は、江戸時代の白隠禅師によって体系化された公案禅(こうあんぜん)といわれるものです。
禅僧を養成する専門道場は全国に四〇箇所あって、約三百五十名程の雲水(修行僧)が十年一日の如く修行に励んでいます。
公案とは禅的な問題ことですが、本来は公の文書のことで、“仏祖の悟り”の機縁丹を修行の手本として古則(こそく)ともいわれています。
道場に入門すると、師家(禅の指導者)が雲水に対して、公案集である『無門関』『碧厳録』『宗門葛藤集』といった中の一則の公案を与えます。
雲水は坐禅をしてその公案を工夫していくのです。
その回答の方法は言葉だけではなく様々な動作で呈示されます。
これを、見解(けんげ)を呈するといいますが、入室参禅(にゅうしつさんぜん)といって、決められた時間に一人で師家の室に入って、見解を呈するものです。
師家はそれに対して古来から見解にピタリと合致していれば次の公案に進めていき、合っていなければ同じ問題を工夫して何度も何度も入室参禅を繰り返すことになります。
こうして、禅的人格が鍛錬されていきます。

ここのところを、『無門関』を選述した無門慧開は、達磨さんをはじめとする禅の高僧方と同じ目で見て、同じ耳で聞くことになることができるようになるのだ、と述べています。

言葉ではどう表現していくか、そして、最後には仏教臭さや悟り臭さを取り除くといった問題が課せられることになります。
このように、臨済宗の修行においては現在も漢詩や漢文を媒体とした人間教育が取り入れられており修行生活の中心に据えられているのです。

親鸞聖人御絵伝

2016年4・5月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を厳修するにあたって、賞典として下附された「親鸞聖人御絵伝」です。

宗祖90年の御生涯を感銘深く述べられた絵巻物である『親鸞聖人伝絵』。
その絵の部分を抜粋し掛軸にしたものが『御絵伝』です。
この品はもともと四幅仕立てである掛軸を一幅にまとめています。
下から上へと順々に宗祖の御生涯が解りやすく描かれており、「1」~「9」は宗祖求道の歩みが主に吉水時代を中心に描かれ、「10」~「20」は承元の法難から本廟創立までが描かれております。
そこには、後々の世まで本願念仏の教えを伝え護っていかねばならないという作者・覚如上人の強い責任感と使命感を感じる事ができます。

画像は「親鸞聖人御絵伝」で検索して見てください。

その中に「吉水入室(きっすいにゅうしつ)」があります。

吉水入室(きっすいにゅうしつ)
建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。
これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。
真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。

比叡山での長い修行は結実しませんでした。
新たな道を求めて吉水の法然上人を訪ねたのです。
門を入って、縁先に立って先頭にいる人が親鸞聖人です。
つづいて入室、奥に座しておられるのが黒衣姿の法然上人、それに対座している人が白衣姿の親鸞聖人です。