日常茶飯(にちじようさはん)

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高尚な真理も、平凡な毎日の暮らしの中で、それこそ、ありふれた行為のごとく実践されてこそ意味がある。

日ごろ私たちは、お茶を飲んだり、食事をしたりすることを毎日繰り返しています。
そのように、ごく日常のことを表しています。

そこから転じて、特に取り立てて言うほどのことでもない、何の変哲もない当たり前の行為を意味する言葉に「日常茶飯事」があります。

お茶は昔から日本人の生活の中に根付いている飲み物なので、このようなお茶に関係することわざや慣用句が多くあります。

日常茶飯事=毎日の有り触れた物事。
参考:茶飯事(さはんじ) 茶を飲み飯を食うように、珍しくもない日常普通のこと。
ごく有り触れたこと。また、日常行っている容易いこと。

さはん-じ【茶飯事】 日常ごくありふれた事
【由来】・・ 昭和二年、正岡子規の理念を受け継いだ高浜虚子の造語で、ホトトギス派の基本理念であり、 俳壇に大きな影響を与えました。


「日常茶飯事」という言葉について、ある人においては、多少変わったことであっても、他の人にしてみれば、日常に於いて、お茶を飲んだりご飯を食べたりするくらい当たり前のことだという意味です。

どこででも見かける平凡な出来事、ありさま、と現代の私たちはこのことばをそれこそ日常茶飯に用いているが、本来はもっと大切に使いたいことばなのです。

仏教では、あり合わせのものを「家常」と呼びました。

つまりは、家の中にいつもあるもの、「家の常」ということです。

当然、誰の目にもありふれた、なんでもないもの、どうでもいい習慣にしか映らない。

そこでまず「家常茶飯事」ということばが生まれました。

そして、一般的に用いられるようになり、「家常」が「日常」にかわり「日常茶飯」になったようです。

つまりは、人間、毎日の常としてお茶やご飯を食べます。

そして、それを何も特別なこととは思いません。

同じように、「高尚な真理も、平凡な毎日の暮らしの中で、それこそ、ありふれた行為のごとく実践されてこそ意味がある。」というのがこのことばの本来の真意だと思います。

逆に、「真理なんてたかがこんなものにしかすぎない。」という皮肉なニュアンスもこめられているようです。

お茶を飲んだりご飯を食べる習慣は無意識に身につきますが、真理がどく平凡な日常生活の中に存在することを認識するまでには、とかく時間がかかるものです。

非凡さだけを追い求める人たちには、絶対に理解できないことばの一つといっていいのではないでしょうか。